君の隣にいたいから。

― In The 13 Old ―
後編

「……崖、だな」

 腕を組んで、あからさまに呆れて溜息をつく。近づいて覗き込むと、光が当たらない為、大分黒ずんで見える、青い川があった。

「……まさか、落ちたわけじゃない……よな……」
「……冗談でも、そういうこと言うなよな、……ザルツ」
「……」

 下を覗いたまま、川の行方を目で追う。
 流れは速い。

「……どうする? この辺、ぐるっと回ってみるか?」
「ああ……、」

 す、と顔を上げた。背中を、崖に向ける。

「……」

 その瞬間。  ザルツの動きが、止まった。

「っ……、」
「……? 何だ? どうし……、」

 様子のおかしいザルツを訝り、イルザムが首を傾げた。
 瞬間、


「……避けろっ、イルザム!!」
「!? うわっ……」


 必死で押し出したような声でザルツが叫んだと同時に、ザルツはイルザムを突き飛ばした。崖とは反対方向に、イルザムが倒れる。

「つっ……、……おい! 何すんだ、ザ……」

 身体を起こしたイルザムの言葉は、そこで途切れた。
 目の前で起こっている光景に、目を見開く。

「……ッ、……くそっ!」
「……! ザ、ザルツッ!」

 信じがたい光景だった。が、どうやら夢ではないらしい。イルザムが、必死で頭を回転させる。

 少し前、自分達が戦ったのと同じ毛の色、しかしその大きさは、二倍もあるだろう。大きな狼が、ザルツに覆い被さっていた。今にも喰いかからんと口を開けている狼の下で、ザルツが必死にもがいている。
 更に、それが起こっているのが、崖際ぎりぎりのところ。

 ザルツの頭は宙に浮いているような状態になり、今にも崖下に落ちそうになっていた。
 上には、狼が乗っていて。

「くっ……」

 剣を抜こうにも抜けず、必死で応対する。
 ザルツを助けようと、イルザムは剣を抜いた。
 ところがその瞬間、

「っ、やめろ、イルザム!」
「!」

 鋭い声が飛んだ。イルザムが動きを止める。
 狼が、その鋭い刃で、ザルツの肩に噛み付いた。ザルツが顔をしかめる。動いた所為で、元々脆かったのか、崖がパラ、と音をたてた。

「……崩れそうに、なってるってのか……!?」

 攻撃は止められ、ザルツは身動きが取れない。放っておいても、狼が離れることはないだろう。そしてこのままでは、崖が崩れるかもしれない。状況は、最悪だ。
 このまま時間が経っても、やばい方向にしか、事は進まない。

 そう判断し、イルザムは、腕を振り上げた。
 同時に、狼が再び口を開ける。ザルツは思わず目を閉じた。

「! ばっ……、やめろっつってんだろ! イル……」
「イルザム君、しゃがんで!」
「!」

 突然、耳に、澄んだ声が届いた。
 次に、風の音。
 突風のようなものが吹き荒れて、イルザムも目を閉じる。
 次にイルザムが目を開いた時には、ザルツの上に、大きな狼はいなかった。崖の反対側を見ると、首の後ろに傷を負った狼が、今では森と呼べない森のある方角に、逃げていた。
 ザルツの方を見る。
 崖際から離れて、体勢を整えていた。左の肩には、少し血がにじんでいた。

「大丈夫か、ザルツ!?」
「……。……あ……ああ。……でも、」
「ザルツ!」

 二人が並んでいるところに、さっきと同じ、澄んだ声が飛んできた。
 広くて定かではないが、声のした方向を、向く。

「ザルツッ……、……うわっ!」

 こっちに向かって走ってきているのは、探していた人の、片方――リビアだった。短くなった薄碧色の髪を跳ねさせながら、息をきらせて、近づいてくる。
 その途中で、一回転んだ。慌てて立ち上がって、また走って。

「ザルツ、大丈夫!? イルザム君もっ……」
「リビア……、……ああ、大丈夫だけど……、……」
「魔法を使ったんだよ、……そこに、葉っぱあるでしょ?」

 言われて、さっきまで自分のいた辺りを見た。見たことのない植物の葉っぱが、一枚落ちている。

「……って、違う違うそんなんじゃないんだ! セルシア姫が――」
「……!」

 息をきらせたまま告げられた言葉に、ザルツが目を見開く。
 ザルツは右手で、リビアの胸倉を掴んだ。

「! お、おい、ザルツ……」
「セルシア様が……、……セルシア様がどうしたって!?」
「っ……、そ、それが……」

 手を振り解きながら、リビアが告げる。
 セルシアの姿が見えなかった、理由を。

 直後。
 二人が呼び止めても、ザルツは聞かなかった。
 リビアの言った方へ、わき目も振らず、走って、走り続ける。

 その後を、リビアとイルザムが追った。
 何を言っても聞かないのがわかったから、何も言わなかった。

 草原は広く広く広がっていて、風がなる度に、草達が、光を弾きながら音をたてる。
 今はもう森とは呼べない森の中には、沢山の新芽が、顔を出していた。

 草の海の中を、少年が、走る。
 肩に足りない砂色の髪は、風にそって流れる。
 若草色の瞳は、不安げに、でも強く揺れて。

 今はただ、真っ直ぐに走る。

 崖の向こう側から、日が見えた。大分傾いて、赤みを帯びかけた。

* * *

『……だって、俺のせいだから』

 どうして、そう思うの?
 あれは、誰も悪くないんだよ?

『……俺が、やりすぎたんだ。逃げればよかったのに、戦ったり、したから』

 でもあれは、守るためだったんでしょう?

『……でも、そのせいで、あいつは帰る場所を失った』

 ……どうして、君は、そんなに、

『……俺のせいだ。……俺の、……だから』

 君は、いつもそんなだね。
 そんな、かなしそうな目で、見てるんだ。

 何が大切?

 何が、そんなに守りたいもの?

『……だから……』

 だからまた、剣をとって、笑って、強くなって、笑ってみせて……。

* * *

 さっきの場所から、大分離れた。それでもまだ、少し遠くに、城が見える。
 森へ行くものだと思っていたから、こんなに方向が違ったのだろう。

「……、……セルシア様……!」
「……ザ、……ザルツ……」

 崖際に立って、下を覗く。
 少しだけ突き出た岩場に、セルシアがしゃがみ込んでいた。今にも泣きそうな顔で、ザルツを見上げていた。手を伸ばして、届くか届かないか、という距離。

「……ちょっと転んだ拍子に落ちて、何とかあそこに掴まって、登って……」
「……セルシア様、こっちに登っては、……これません……よね。やっぱり」

 セルシアが、こくん、と頷く。
 ザルツは自分しかわからないくらいの、小さい溜息をついた。崖際にしゃがみ込んで、左手を地面にかける。右手を伸ばせるだけ伸ばした。左肩が引きつって、一瞬顔をしかめた。それでも、言う。

「……セルシア様、掴まってください」
「……いや」
「……セルシア様。お願いです」
「……だって、……恐いんだもの……」

 ドレスの裾をぎゅっと両手で掴んで、呟く。
 その一言一言を聞き逃さないよう、耳を澄ませて。

「……こんなところで、……立つことなんて、できないよ」
「でも、……そうしないと、一生そのままです」

 静かに言って。
 後ろでは、リビアとイルザムが、何も言わずに見つめている。
 ザルツと、セルシアの声を。

「……はあ……」

 ザルツが、今度はかなり大げさに、息を吐く。
 ……そして、崖際に腰掛け、

「え? ……っ!? え、ちょ、ちょっと、ザルツ!?」

 そこから、離れた。軽い身のこなしで、セルシアのいる岩場へ、飛び降りる。膝を折って着地すると、一息つき、す、と立ち上がった。セルシアを見る。
 その様子を、セルシアはしゃがみ込んだまま、ずっと見ていた。

「……セルシア様、俺が負ぶっていきます」
「え? ……、な、何言ってるの、ザルツ! そんなこと、できるわけないじゃない! ……それに、」

 左肩の、赤い、にじんだ跡を見て、言う。

「……その、怪我……。……どうし、」
「だって、立つの、嫌なんでしょう? セルシア様」

 若草色の瞳で、サファイア色の瞳を見つめて、静かに、でもしっかりと言う。セルシアはその言葉に戸惑いを見せた。
 ザルツが、目線を同じにする。片膝で、しゃがむことで。

「……俺は、騎士です。セルシア様を、守るためにいるんです」
「……」
「こんなに怖い目に遭わせて、すみません。……ちゃんと、城まで送り届けます。……だから」
「……」

 セルシアが、顔を上げた。ザルツを、じっと見て。
 やがて、背中に、おずおずと圧し掛かった。思っていたよりも、それはずっと軽い……。

「……じゃあ、動かないでくださいね」
「……うん……」

 立ち上がると、セルシアの細い腕が、ザルツの顔を抱え込むように、軽く、きゅ、と抱きしめた。降りたプラチナブロンドの髪が、頬に触れてくすぐったかった。
 ザルツが、口の端をきゅ、と結ぶ。

 岩の壁に手をかけ、先程までいた足場から、離れた。
 セルシアの分の重みに負けないように、足をしっかりと、岩の壁の、突き出たところにかける。

「ザルツ、掴まって!」

 上を見ると、リビアが手を伸ばしていた。
 逆光で、表情はよく見えないが、笑ってはいないだろう。慌てているか、不安そうな表情をしていると、そう思う。声が、なんとなくそんな感じだ。

 手をゆっくりと伸ばし、白い手に、自分の手を滑り込ませた。無意識に力が篭もる。
 左の肩が、引きつった。血のにじんだ跡が、じんわりと広がっていく。
 エルフの血のせいでその線は細く、白い手は、頼り無げだった。

 そんなことを考える余裕なんてないはずなのに。
 そんなことを思い、ザルツがくす、と笑った。セルシアが、それを見て、不思議そうな顔をする。

「……じゃ、引っ張るよ!」

 腕が、お世辞にも強いとは言えない力で、ぐい、と引っ張られた。
 何とか上がろうと、ザルツも必死になる。恐くなったのか、セルシアは目を強く閉じた。

 途中で、腕を引っ張る力が強くなった。
 上をちらっと見ると、イルザムが、リビアの手首を掴んで、引っ張っていた。





 草原が、淡いオレンジ色を帯びている。

 崖際に、息をきらせた三人の少年と、一人の少女が、座り込んでいた。どのくらいそうしていたのかよくわからないが、お互いに喋ることもない。ただずっと、呼吸を整えるために、息をしている。
 やがて、一人の少女が、動いた。

「……あの、ザルツ……」
「……」

 セルシアは、顔を下に向けて荒い呼吸を繰り返すザルツを、覗き込む。
 少し不安げな顔で、言った。

「……ありがとう、……助けて、くれて……」
「……ありがとう、……じゃ、ないでしょう、セルシア様……っ」

 視線だけ、セルシアに向ける。
 その鋭い視線に、セルシアがびくっと身をすくめた。ザルツが顔を上げる。
 その顔が、珍しく、ひどく怒っていて。

「落ちたら、どうなってたと思うんですか!? どうして、こんなところに来たんですか、セルシア様、王女様なんですよ!? わかってるんですか!?」
「っ……、ご、ごめんなさいっ……」
「ごめんなさいで済まなかったら、どうする気だったんですか!
 セルシア様が、……セルシア様が、死んだら……」

 ザルツの表情が、歪む。つらそうな、悔しそうな、泣きそうな顔だった。

「……どうする、つもりだったんですか……」
「……ごめん、……なさい……」

 セルシアの顔が、歪む。
 ふ、と弱い顔になった後、その大きな、サファイア色の瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。

「……ごめんなさい、ごめんなさい……。……こんな、こんなつもりじゃなかったの……。
 ……だって……」
「……セ、……セルシア、様……」
「……あーあ、女の子泣かせたー。いっけねぇんだ、ザルツ」
「イ、イルザムッ! ……て、セルシア様も、……そんな、泣かなくてもっ……」

 顔を伏せて涙を零すセルシアの前で、ザルツが明らかに慌てる。
 そんなザルツを、イルザムが茶化した。
 面白いくらいに慌てるザルツを見て、リビアがくす、と笑う。
 セルシアは一向に、泣き止む気配を見せない。

 それから、どれくらい時間が過ぎたのか。
 長い長い間だったような、一瞬だったような。

 はた、とセルシアが、伏せていた顔を上げた。ザルツが、やっぱり驚く。
 驚いているザルツには気づかない様子で、セルシアがいきなり立ち上がった。

「……セ、セルシア様?」
「セルシア姫? ……どうかしたの?」
「……あれ……」

 セルシアが、崖の向こう側を、じっと凝視していた。
 その視線の向こうを、ザルツとリビア、イルザムも、見る。


「……」


 そこにあったのは、真赤な夕陽だった。


 赤い光で、山も草原も、木も、空も。
 その空を飛んでいる鳥も、それを見つめる四人の瞳も。
 すべてが、赤く染まっている。
 世界が、静かになる。風がざぁ、と吹いて、草原を揺らした。
 赤く染まった草達が、光の波をつくる。


 ずっと、黙って、ずっとずっと、それを見ていた。
 こんなに赤い夕陽は、こんなに綺麗なものは、見たことがなかった。


「……これが、見たかったの」

 セルシアが、ぽつりと呟く。ザルツとイルザムが、視線をセルシアに向けた。

「……この国で、一番、これが綺麗に見えるところ。……小さな頃、お父様とお母様と、一度だけ、見たことがあるんだ」

 リビアは、ずっとその視線を、真赤な夕陽に向けたまま。
 何も言わない。

「……それから、ここに来たことは無いの。……見たかったし、……見せたかった。これを、リビアにも」

 リビア。
 その名前を聞いて、ザルツが視線をリビアに向ける。

「……リビア。
 ……赤は、あなたの大切なものを奪った色だけど」

 いつもの甘えた声ではない、高く澄んだ声。
 その微笑みは、まるで花のように、綺麗な。

「綺麗でしょう。……私の、一番、綺麗だと思うもの」
「……うん」

 リビアが、ぽつりと呟く。

「……綺麗……」

 小さく呟いた言葉は、風に消えて。


 四人は赤い草原の中で、真赤な夕陽をずっと見ていた。





「……ありがとう、ザルツ。助けてくれて」
「……?」

 セルシアが、呟く。
 ザルツは、不思議そうな顔で、セルシアを見つめた。

「……崖から落ちたとき、恐かった。あそこにいた時も、恐かった」
「……」
「……でもね、無理をしてでも、ここに来たかった。……寂しかったの」
「……寂しかった?」
「うん。……私、王女でしょう。
 だからね、誰かと好きなように遊ぶなんて、できないの。何も変わらない、昔と、同じ」

 幼かった頃から、随分と背も伸びて、髪も伸びて。
 夕陽と相反するサファイア色の瞳が、ずっと、真赤な夕陽を見ている。

「……でもね、ザルツは。
 私が危ないと、いつも来てくれる。
 私が寂しいと、いつも隣にいる。
 ……私と、一番一緒にいるのは、あなたなの」
「……」

 セルシアが、顔をザルツに向けた。
 あまりにも綺麗な、赤い、光が降り注ぐ。

「……ありがとう、ザルツ。これからもずっと、一緒にいてね」
「……」

 にこりと、微笑んだ。
 ザルツも、つられて微笑む。

「……もちろんです」

 小さく答えたその言葉に、セルシアは満足そうに、目を細める。
 それがあまりにも綺麗で、あまりにも愛しい。

 この人が、好きだ。
 優しくて、おてんばで、寂しがりやで。
 とても愛しい。

 それからは、もう誰も、誰かの方を見なかった。
 向こう側の真赤な夕陽が、すべてを優しく、赤く包む。

 沈まない夕陽は、この世界にはありえない。
 辺り一帯を夜の静寂が包むまで、四人は何も喋らなかった。


* * *


 夜の庭は、退屈かもしれない。
 昼とは違い、花の色も形も、見えないから。

 その代わりに、夜の庭の上空には、満天の星空があった。
 吸い込まれそうな程たくさんの星を、セルシアは、見上げる。

「……あれ……」
「……?」

 キィ、と、静寂の中に、不似合いな音が響いた。
 見るとそこには、耳の長い、短い、薄碧色の髪を持った、リビアがいる。

「……寝てなかったんだ。いいの?」
「うん、いいの。部屋を抜け出すくらい、わけないよ」
「……ダメじゃんか、それ」

 呆れたように言うリビアに、セルシアはにこりと笑いかけた。
 リビアも、つられて微笑む。
 歩きながら、ゆっくりと、セルシアの隣に来た。一緒に見上げる。

「……今日。ありがとう、セルシア姫」

 リビアが、星空を見上げたまま、澄んだ声で小さく呟いた。
 セルシアが、顔をリビアに向ける。
 リビアは、続けた。

「……あの後、散々怒られて。本当にごめんね」
「……いいよ。……だって、リビアのためだもん」

 セルシアが、やわらかい声で、そう言った。リビアが、軽く微笑む。

「……もう、大丈夫?」
「うん……。……もう、平気だよ……」

 リビアが、星空から目を離した。セルシアを、見る。

「……寂しかったんだ。本当は。いきなり森が燃えて。父上も母上も、弟もいなくなって。仲間も、みんな」
「……」
「……でも、あれは、誰のせいでもない。……でもやっぱり、寂しかった……」
「……リビア」

 セルシアが、リビアを見上げる。
 リビアの瞳から。  色の無い雫が、涙が、零れていた。

「……あ……、……ごめん、別に、……こんなつもりじゃ」
「……」

 薄碧色の髪に、そっと。セルシアの細い手が、滑り込む。

「――ごめん、……ね……」

 リビアが、顔を下に向けた。
 零れた涙が、花びらの上に、落ちる。
 その花の色がどんな色か、わからなかった。

 満天の星空の下、リビアとセルシアが、二人、並ぶ。
 留まることのない涙は、ずっと、花びらを濡らしていく。



 その光景を、ザルツが見ていた。
 複雑そうな表情をして、
 右手をぎゅっと握り締めて、何かを耐えるようにして。



文芸部誌「游」59号掲載(加筆修正済)

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