「……崖、だな」 腕を組んで、あからさまに呆れて溜息をつく。近づいて覗き込むと、光が当たらない為、大分黒ずんで見える、青い川があった。 「……まさか、落ちたわけじゃない……よな……」 「……冗談でも、そういうこと言うなよな、……ザルツ」 「……」 下を覗いたまま、川の行方を目で追う。 流れは速い。 「……どうする? この辺、ぐるっと回ってみるか?」 「ああ……、」 す、と顔を上げた。背中を、崖に向ける。 「……」 その瞬間。 ザルツの動きが、止まった。 「っ……、」 「……? 何だ? どうし……、」 様子のおかしいザルツを訝り、イルザムが首を傾げた。 瞬間、 「……避けろっ、イルザム!!」 「!? うわっ……」 必死で押し出したような声でザルツが叫んだと同時に、ザルツはイルザムを突き飛ばした。崖とは反対方向に、イルザムが倒れる。 「つっ……、……おい! 何すんだ、ザ……」 身体を起こしたイルザムの言葉は、そこで途切れた。 目の前で起こっている光景に、目を見開く。 「……ッ、……くそっ!」 「……! ザ、ザルツッ!」 信じがたい光景だった。が、どうやら夢ではないらしい。イルザムが、必死で頭を回転させる。 少し前、自分達が戦ったのと同じ毛の色、しかしその大きさは、二倍もあるだろう。大きな狼が、ザルツに覆い被さっていた。今にも喰いかからんと口を開けている狼の下で、ザルツが必死にもがいている。 更に、それが起こっているのが、崖際ぎりぎりのところ。 ザルツの頭は宙に浮いているような状態になり、今にも崖下に落ちそうになっていた。 上には、狼が乗っていて。 「くっ……」 剣を抜こうにも抜けず、必死で応対する。 ザルツを助けようと、イルザムは剣を抜いた。 ところがその瞬間、 「っ、やめろ、イルザム!」 「!」 鋭い声が飛んだ。イルザムが動きを止める。 狼が、その鋭い刃で、ザルツの肩に噛み付いた。ザルツが顔をしかめる。動いた所為で、元々脆かったのか、崖がパラ、と音をたてた。 「……崩れそうに、なってるってのか……!?」 攻撃は止められ、ザルツは身動きが取れない。放っておいても、狼が離れることはないだろう。そしてこのままでは、崖が崩れるかもしれない。状況は、最悪だ。 このまま時間が経っても、やばい方向にしか、事は進まない。 そう判断し、イルザムは、腕を振り上げた。 同時に、狼が再び口を開ける。ザルツは思わず目を閉じた。 「! ばっ……、やめろっつってんだろ! イル……」 「イルザム君、しゃがんで!」 「!」 突然、耳に、澄んだ声が届いた。 次に、風の音。 突風のようなものが吹き荒れて、イルザムも目を閉じる。 次にイルザムが目を開いた時には、ザルツの上に、大きな狼はいなかった。崖の反対側を見ると、首の後ろに傷を負った狼が、今では森と呼べない森のある方角に、逃げていた。 ザルツの方を見る。 崖際から離れて、体勢を整えていた。左の肩には、少し血がにじんでいた。 「大丈夫か、ザルツ!?」 「……。……あ……ああ。……でも、」 「ザルツ!」 二人が並んでいるところに、さっきと同じ、澄んだ声が飛んできた。 広くて定かではないが、声のした方向を、向く。 「ザルツッ……、……うわっ!」 こっちに向かって走ってきているのは、探していた人の、片方――リビアだった。短くなった薄碧色の髪を跳ねさせながら、息をきらせて、近づいてくる。 その途中で、一回転んだ。慌てて立ち上がって、また走って。 「ザルツ、大丈夫!? イルザム君もっ……」 「リビア……、……ああ、大丈夫だけど……、……」 「魔法を使ったんだよ、……そこに、葉っぱあるでしょ?」 言われて、さっきまで自分のいた辺りを見た。見たことのない植物の葉っぱが、一枚落ちている。 「……って、違う違うそんなんじゃないんだ! セルシア姫が――」 「……!」 息をきらせたまま告げられた言葉に、ザルツが目を見開く。 ザルツは右手で、リビアの胸倉を掴んだ。 「! お、おい、ザルツ……」 「セルシア様が……、……セルシア様がどうしたって!?」 「っ……、そ、それが……」 手を振り解きながら、リビアが告げる。 セルシアの姿が見えなかった、理由を。 直後。 二人が呼び止めても、ザルツは聞かなかった。 リビアの言った方へ、わき目も振らず、走って、走り続ける。 その後を、リビアとイルザムが追った。 何を言っても聞かないのがわかったから、何も言わなかった。 草原は広く広く広がっていて、風がなる度に、草達が、光を弾きながら音をたてる。 今はもう森とは呼べない森の中には、沢山の新芽が、顔を出していた。 草の海の中を、少年が、走る。 肩に足りない砂色の髪は、風にそって流れる。 若草色の瞳は、不安げに、でも強く揺れて。 今はただ、真っ直ぐに走る。 崖の向こう側から、日が見えた。大分傾いて、赤みを帯びかけた。 『……だって、俺のせいだから』 どうして、そう思うの? あれは、誰も悪くないんだよ? 『……俺が、やりすぎたんだ。逃げればよかったのに、戦ったり、したから』 でもあれは、守るためだったんでしょう? 『……でも、そのせいで、あいつは帰る場所を失った』 ……どうして、君は、そんなに、 『……俺のせいだ。……俺の、……だから』 君は、いつもそんなだね。 そんな、かなしそうな目で、見てるんだ。 何が大切? 何が、そんなに守りたいもの? 『……だから……』 だからまた、剣をとって、笑って、強くなって、笑ってみせて……。 さっきの場所から、大分離れた。それでもまだ、少し遠くに、城が見える。 森へ行くものだと思っていたから、こんなに方向が違ったのだろう。 「……、……セルシア様……!」 「……ザ、……ザルツ……」 崖際に立って、下を覗く。 少しだけ突き出た岩場に、セルシアがしゃがみ込んでいた。今にも泣きそうな顔で、ザルツを見上げていた。手を伸ばして、届くか届かないか、という距離。 「……ちょっと転んだ拍子に落ちて、何とかあそこに掴まって、登って……」 「……セルシア様、こっちに登っては、……これません……よね。やっぱり」 セルシアが、こくん、と頷く。 ザルツは自分しかわからないくらいの、小さい溜息をついた。崖際にしゃがみ込んで、左手を地面にかける。右手を伸ばせるだけ伸ばした。左肩が引きつって、一瞬顔をしかめた。それでも、言う。 「……セルシア様、掴まってください」 「……いや」 「……セルシア様。お願いです」 「……だって、……恐いんだもの……」 ドレスの裾をぎゅっと両手で掴んで、呟く。 その一言一言を聞き逃さないよう、耳を澄ませて。 「……こんなところで、……立つことなんて、できないよ」 「でも、……そうしないと、一生そのままです」 静かに言って。 後ろでは、リビアとイルザムが、何も言わずに見つめている。 ザルツと、セルシアの声を。 「……はあ……」 ザルツが、今度はかなり大げさに、息を吐く。 ……そして、崖際に腰掛け、 「え? ……っ!? え、ちょ、ちょっと、ザルツ!?」 そこから、離れた。軽い身のこなしで、セルシアのいる岩場へ、飛び降りる。膝を折って着地すると、一息つき、す、と立ち上がった。セルシアを見る。 その様子を、セルシアはしゃがみ込んだまま、ずっと見ていた。 「……セルシア様、俺が負ぶっていきます」 「え? ……、な、何言ってるの、ザルツ! そんなこと、できるわけないじゃない! ……それに、」 左肩の、赤い、にじんだ跡を見て、言う。 「……その、怪我……。……どうし、」 「だって、立つの、嫌なんでしょう? セルシア様」 若草色の瞳で、サファイア色の瞳を見つめて、静かに、でもしっかりと言う。セルシアはその言葉に戸惑いを見せた。 ザルツが、目線を同じにする。片膝で、しゃがむことで。 「……俺は、騎士です。セルシア様を、守るためにいるんです」 「……」 「こんなに怖い目に遭わせて、すみません。……ちゃんと、城まで送り届けます。……だから」 「……」 セルシアが、顔を上げた。ザルツを、じっと見て。 やがて、背中に、おずおずと圧し掛かった。思っていたよりも、それはずっと軽い……。 「……じゃあ、動かないでくださいね」 「……うん……」 立ち上がると、セルシアの細い腕が、ザルツの顔を抱え込むように、軽く、きゅ、と抱きしめた。降りたプラチナブロンドの髪が、頬に触れてくすぐったかった。 ザルツが、口の端をきゅ、と結ぶ。 岩の壁に手をかけ、先程までいた足場から、離れた。 セルシアの分の重みに負けないように、足をしっかりと、岩の壁の、突き出たところにかける。 「ザルツ、掴まって!」 上を見ると、リビアが手を伸ばしていた。 逆光で、表情はよく見えないが、笑ってはいないだろう。慌てているか、不安そうな表情をしていると、そう思う。声が、なんとなくそんな感じだ。 手をゆっくりと伸ばし、白い手に、自分の手を滑り込ませた。無意識に力が篭もる。 左の肩が、引きつった。血のにじんだ跡が、じんわりと広がっていく。 エルフの血のせいでその線は細く、白い手は、頼り無げだった。 そんなことを考える余裕なんてないはずなのに。 そんなことを思い、ザルツがくす、と笑った。セルシアが、それを見て、不思議そうな顔をする。 「……じゃ、引っ張るよ!」 腕が、お世辞にも強いとは言えない力で、ぐい、と引っ張られた。 何とか上がろうと、ザルツも必死になる。恐くなったのか、セルシアは目を強く閉じた。 途中で、腕を引っ張る力が強くなった。 上をちらっと見ると、イルザムが、リビアの手首を掴んで、引っ張っていた。 草原が、淡いオレンジ色を帯びている。 崖際に、息をきらせた三人の少年と、一人の少女が、座り込んでいた。どのくらいそうしていたのかよくわからないが、お互いに喋ることもない。ただずっと、呼吸を整えるために、息をしている。 やがて、一人の少女が、動いた。 「……あの、ザルツ……」 「……」 セルシアは、顔を下に向けて荒い呼吸を繰り返すザルツを、覗き込む。 少し不安げな顔で、言った。 「……ありがとう、……助けて、くれて……」 「……ありがとう、……じゃ、ないでしょう、セルシア様……っ」 視線だけ、セルシアに向ける。 その鋭い視線に、セルシアがびくっと身をすくめた。ザルツが顔を上げる。 その顔が、珍しく、ひどく怒っていて。 「落ちたら、どうなってたと思うんですか!? どうして、こんなところに来たんですか、セルシア様、王女様なんですよ!? わかってるんですか!?」 「っ……、ご、ごめんなさいっ……」 「ごめんなさいで済まなかったら、どうする気だったんですか! セルシア様が、……セルシア様が、死んだら……」 ザルツの表情が、歪む。つらそうな、悔しそうな、泣きそうな顔だった。 「……どうする、つもりだったんですか……」 「……ごめん、……なさい……」 セルシアの顔が、歪む。 ふ、と弱い顔になった後、その大きな、サファイア色の瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。 「……ごめんなさい、ごめんなさい……。……こんな、こんなつもりじゃなかったの……。 ……だって……」 「……セ、……セルシア、様……」 「……あーあ、女の子泣かせたー。いっけねぇんだ、ザルツ」 「イ、イルザムッ! ……て、セルシア様も、……そんな、泣かなくてもっ……」 顔を伏せて涙を零すセルシアの前で、ザルツが明らかに慌てる。 そんなザルツを、イルザムが茶化した。 面白いくらいに慌てるザルツを見て、リビアがくす、と笑う。 セルシアは一向に、泣き止む気配を見せない。 それから、どれくらい時間が過ぎたのか。 長い長い間だったような、一瞬だったような。 はた、とセルシアが、伏せていた顔を上げた。ザルツが、やっぱり驚く。 驚いているザルツには気づかない様子で、セルシアがいきなり立ち上がった。 「……セ、セルシア様?」 「セルシア姫? ……どうかしたの?」 「……あれ……」 セルシアが、崖の向こう側を、じっと凝視していた。 その視線の向こうを、ザルツとリビア、イルザムも、見る。 「……」 そこにあったのは、真赤な夕陽だった。 赤い光で、山も草原も、木も、空も。 その空を飛んでいる鳥も、それを見つめる四人の瞳も。 すべてが、赤く染まっている。 世界が、静かになる。風がざぁ、と吹いて、草原を揺らした。 赤く染まった草達が、光の波をつくる。 ずっと、黙って、ずっとずっと、それを見ていた。 こんなに赤い夕陽は、こんなに綺麗なものは、見たことがなかった。 「……これが、見たかったの」 セルシアが、ぽつりと呟く。ザルツとイルザムが、視線をセルシアに向けた。 「……この国で、一番、これが綺麗に見えるところ。……小さな頃、お父様とお母様と、一度だけ、見たことがあるんだ」 リビアは、ずっとその視線を、真赤な夕陽に向けたまま。 何も言わない。 「……それから、ここに来たことは無いの。……見たかったし、……見せたかった。これを、リビアにも」 リビア。 その名前を聞いて、ザルツが視線をリビアに向ける。 「……リビア。 ……赤は、あなたの大切なものを奪った色だけど」 いつもの甘えた声ではない、高く澄んだ声。 その微笑みは、まるで花のように、綺麗な。 「綺麗でしょう。……私の、一番、綺麗だと思うもの」 「……うん」 リビアが、ぽつりと呟く。 「……綺麗……」 小さく呟いた言葉は、風に消えて。 四人は赤い草原の中で、真赤な夕陽をずっと見ていた。 「……ありがとう、ザルツ。助けてくれて」 「……?」 セルシアが、呟く。 ザルツは、不思議そうな顔で、セルシアを見つめた。 「……崖から落ちたとき、恐かった。あそこにいた時も、恐かった」 「……」 「……でもね、無理をしてでも、ここに来たかった。……寂しかったの」 「……寂しかった?」 「うん。……私、王女でしょう。 だからね、誰かと好きなように遊ぶなんて、できないの。何も変わらない、昔と、同じ」 幼かった頃から、随分と背も伸びて、髪も伸びて。 夕陽と相反するサファイア色の瞳が、ずっと、真赤な夕陽を見ている。 「……でもね、ザルツは。 私が危ないと、いつも来てくれる。 私が寂しいと、いつも隣にいる。 ……私と、一番一緒にいるのは、あなたなの」 「……」 セルシアが、顔をザルツに向けた。 あまりにも綺麗な、赤い、光が降り注ぐ。 「……ありがとう、ザルツ。これからもずっと、一緒にいてね」 「……」 にこりと、微笑んだ。 ザルツも、つられて微笑む。 「……もちろんです」 小さく答えたその言葉に、セルシアは満足そうに、目を細める。 それがあまりにも綺麗で、あまりにも愛しい。 この人が、好きだ。 優しくて、おてんばで、寂しがりやで。 とても愛しい。 それからは、もう誰も、誰かの方を見なかった。 向こう側の真赤な夕陽が、すべてを優しく、赤く包む。 沈まない夕陽は、この世界にはありえない。 辺り一帯を夜の静寂が包むまで、四人は何も喋らなかった。 夜の庭は、退屈かもしれない。 昼とは違い、花の色も形も、見えないから。 その代わりに、夜の庭の上空には、満天の星空があった。 吸い込まれそうな程たくさんの星を、セルシアは、見上げる。 「……あれ……」 「……?」 キィ、と、静寂の中に、不似合いな音が響いた。 見るとそこには、耳の長い、短い、薄碧色の髪を持った、リビアがいる。 「……寝てなかったんだ。いいの?」 「うん、いいの。部屋を抜け出すくらい、わけないよ」 「……ダメじゃんか、それ」 呆れたように言うリビアに、セルシアはにこりと笑いかけた。 リビアも、つられて微笑む。 歩きながら、ゆっくりと、セルシアの隣に来た。一緒に見上げる。 「……今日。ありがとう、セルシア姫」 リビアが、星空を見上げたまま、澄んだ声で小さく呟いた。 セルシアが、顔をリビアに向ける。 リビアは、続けた。 「……あの後、散々怒られて。本当にごめんね」 「……いいよ。……だって、リビアのためだもん」 セルシアが、やわらかい声で、そう言った。リビアが、軽く微笑む。 「……もう、大丈夫?」 「うん……。……もう、平気だよ……」 リビアが、星空から目を離した。セルシアを、見る。 「……寂しかったんだ。本当は。いきなり森が燃えて。父上も母上も、弟もいなくなって。仲間も、みんな」 「……」 「……でも、あれは、誰のせいでもない。……でもやっぱり、寂しかった……」 「……リビア」 セルシアが、リビアを見上げる。 リビアの瞳から。 色の無い雫が、涙が、零れていた。 「……あ……、……ごめん、別に、……こんなつもりじゃ」 「……」 薄碧色の髪に、そっと。セルシアの細い手が、滑り込む。 「――ごめん、……ね……」 リビアが、顔を下に向けた。 零れた涙が、花びらの上に、落ちる。 その花の色がどんな色か、わからなかった。 満天の星空の下、リビアとセルシアが、二人、並ぶ。 留まることのない涙は、ずっと、花びらを濡らしていく。 その光景を、ザルツが見ていた。 複雑そうな表情をして、 右手をぎゅっと握り締めて、何かを耐えるようにして。 文芸部誌「游」59号掲載(加筆修正済) ←13歳前編 16歳前編→ |