いつか、
僕らの正しさで殺した誰かは
声もなく 音もなく とけていって
それで良かったはずでしょう?

それは 君と僕と 銀色の月と
水にとけてきえた 花のひみつ

  水性花  

 黒い色で染まる空、銀色の月が浮かぶ真夜中だった。
 賢者と彼女は、そこにいた。

「何故、あたしを呼んだの? 賢者様」

 彼女はブロンドの髪をかき上げ、ヒスイの瞳で賢者を睨む。美しい顔は憎悪に満ちて。
 真夜中のような黒いローブで顔の半分を隠した賢者は、彼女を見て、ぽつりと言った。

「……知りたかったから……」
「知りたかった? 何を? 暗殺者だったあたしから、偉大な賢者様が」

 端から覗いた黒い瞳。彼女は、顔にかかる前髪を払い、ぶっきらぼうに一言、尋ねる。
 しかし賢者は、彼女の瞳には怯えない。静かな声で、目の前を確かめるように答えた。
 それは、真夜中の下で、灯りを探す子供に似ていたかもしれない。全てが、手探りの。

「……人を引きつける、人の心。わたしは、人を愛することが、できないから」
「愛さない、の間違いではないの? …まあいいわ。あたしは感謝しているの」

 賢者様、貴方に―――そう言って、彼女は口の端を上げて、獰猛な獣のように、笑う。

「この手で『水晶』を、殺すことができるなんて。賢者様、貴方に感謝するわ」
「……『水晶』……」

 ぽつり、と賢者は呟く。彼女は、それはそれは嬉しそうに、右手を、空にかざした。

 黒い色で染まる空、銀色の月が浮かぶ真夜中だった。
 背の低い賢者は彼女を呼び、美しい彼女は賢者に感謝をした。
 音の無い大地の上には、魔方陣が描いてあり、
 賢者と彼女は、その中心に立っていた。そして、手のひらを合わせて契約を交わす。
 彼女の願いと賢者の願いは、まったく同質ではなかったけれど、同等だった。
 彼女の笑い声を耳に留めながら、賢者は黒い瞳を伏せる。


* * *


 ドレスなんていらない。そう言って、裾を千切り、ズボンをはいた。
 長い髪なんていらない。そう言って、短剣を持ち出し、肩より短いところで切った。
 赤い靴なんていらない。そう言って、旅人用のブーツを買った。
 首飾りなんていらない。そう言って、装飾に使われていた宝石を売った。

 いらない。欲しくないものなんて、いらない。
 欲しくないものが手に入っても、欲しいものは手に入らない。
 いつまでもここにいたら、私は私を失う。
 私は違う。私は誰かの人形じゃない。私は自分の意思で自由に動く、『私』だ。
 ここにいた方が安全だけれど、ここにいない方が、ずっといい。
 不自然に着飾って、私を愛さない誰かの意思に殺されるよりは、マシだ。
 ないものねだりだということくらいわかっていたが、それでも我慢ならなかった。

 だから私は、家を飛び出した。私が持っていたものを、すべて投げ出して。
 私が持ち出したものは、これから旅人になる私に、必要なものばかり。
 誕生日にこっそり買ってもらった、旅人用の服。髪を売って買った、少しのパン。
 そして、私の力。


* * *


「エリューシャリオン」

 工房の中、子供はそれの名前を呼んだ。しかし、呼んだ声に対する返事は聞こえない。

「エリューシャリオン。……おーい、エリー? エ・リ・ィー? ……。」

 二度目、三度目。そして四度目。やはり、返事は聞こえない。

「…あれー。もしかして、いないのかい? 仕方ないなー、もう」

 手に持った羽ペンをくるくると回して、子供は大きな、大きな溜息をついた。
 椅子から跳び下り、部屋から出て、辺りを見回すが、何もいなかった。その存在も。
 現実を目の前にして、子供は再び溜息をつく。あまり深刻そうではなかった。

「まったく、どうしてあの子は、ボクの命令を無視するんだか。まあ、別にいいけど」

 そんなことはまったく重要なことではない。子供は早々と、自分の工房に戻った。
 机の上にはたくさんのガラス管があり、ガラス管の中では色のついた水が揺れている。
 分厚い本を手にとって、子供は椅子に座った。ガラス管を一つ、傾けた。

「どこに行ったのかな? 殺しに行ったかな。だとしたら、また、街回らないと」

 面倒だなあ。と、子供は一人、今度こそとても深刻そうに呟く。
 広い部屋。大きな本棚にはぎっしりと、使い古されてぼろぼろの本が詰まっていた。
 子供の工房の中には、子供の興味の対象となるものしか置いていない。

「……さて。あの子が帰ってくるまで、ボクはどうすればいいのかな」

 ねえ、エリューシャリオン? ふふっ、と笑って、子供は手の中の本をめくる。
 そして、二本目のガラス管を、傾けた。途端、白煙が部屋に充満する。
 子供は目の前の紐を引いて、カーテンを開けた。風が、ふわりとやって来た。
 部屋に充満した白煙を連れ去り、風は再び、旅に出た。

「次に生まれる時はさー。退屈ばかりの人間じゃなくて、風になりたいなー」

 そして、風だけが知る場所の旅に、出掛けるんだ。
 次、なんて、あったらたまらないけど。
 子供の顔は、夢と現実に溢れて。

 工房の、外。
 子供が名前を呼んだそれは、血まみれの腕を押さえながら、風を目で追っていた。


* * *


 その場所には、水に咲く花が咲いていた。
 水を織ったような衣を纏い、水晶に似た花を飾って、そこに眠り、生きていた。
 水性花の咲く限られた場所を歩き、踊り、歌い、そして微笑む。
 長い髪の先が、水面に輪を描くのを、楽しそうに、楽しそうに見つめていた。
 水に咲く花は、この世のものとは思えないほどの美しさを持つという。
 一切の穢れを無に返すほどの魅力。ある種の魔力を携えた、美しさ。
 旅人は、罪をあらがうために、赦してもらうために、水に咲く花を求めた。
 しかし水に咲く花をその目にしたものは居らず、
 ゆえに水に咲く花も、水性花の咲く場所も、すべては語り継がれるだけの曖昧な存在。

 水性花とは、水にとける花という意味だ。
 水にとけて消える花。水性花を守り生きていく、水に咲く花。
 いつまでも変わらない。いつから変わらないのか、わからない。

 水に咲く花は、残酷なまでの平等さを持って、今日もそこにいた。


* * *


 平和だった。空は青く、雲は白く伸びて、風は適度に涼しく、髪を撫でていく。
 柵に囲まれた草原の中には、何頭かの、もこもこの羊。羊の背中には、茶色い小鳥。
 風にのって漂うのは、隣の家の娘の焼くパンの匂い。そろそろ昼だ、と自覚する。

「……ふあああぁぁ」

 青年は柵に背中をまるごとあずけたまま、ゆったりと腕を伸ばした。ついで、欠伸。
 一応仕事中だ。仕事中に不謹慎だ。でも、欠伸くらい許してほしい。
 薄茶色の髪を結わえ直して、青年の緑色の瞳は、ゆっくり空をゆく雲を追う。

「……平和だなあ」

 小さな村。もこもこの羊。親は早くに亡くなってしまったが、何の不便も無い。
 退屈は人を殺せると言う言葉がどこかにあるらしいが、別に嫌いではなかった。
 あまりにも平凡な日常。あまりにも平凡な自分も、嫌いではないけれど、でも。

「……平和だなあ。
 ……本当、平和、としか、言いようも無いくらい、平和だ」

 思わず、そう呟きたくなってしまうほど。
 世界は、空は、日常は、とてもとても平和だった。


* * *


「……う……、あ……っ」

 からん、と一つ、音がした後、そこにはナイフがころがっていた。そして、一つの身体。
 夜明け色の少年は、ナイフを落とし、命を奪ったその手で、自分の口を押さえる。
 赤く赤く、赤く染まった、小さな手。夜明け色の少年は、目を見開いて、そこにいた。

「……リルーヴェル!」

 夜明け色の少年の名前を呼んだのは、朝焼け色の少年だった。
 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年の置かれた状況を、正確に把握した。
 床に倒れた、一つの身体。赤く染まった、少年の、小さな手。ころがったナイフ。
 何があったのか、一目でわかった。
 朝焼け色の少年は、深く息を吐く。そして。

「……大丈夫。リルーヴェル。俺がいる」
「……でも、……でも、僕は……」
「……大丈夫。リルーヴェル。俺を信じられるだろう?」
「……でも……っ、でも……!」
「リルーヴェル」

 がたがたと震える夜明け色の少年の手を、朝焼け色の少年は、そっと握った。
 赤く染まる手。ころがったナイフ。命を奪われた、一つの身体。そして少年が二人。
 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年を、真っ直ぐに見つめる。少しの迷いも無く。

「俺達は、俺達の正しさで、彼女を殺した。それで良いだろう?
 俺達は、まだ、生きている。
 楽園を追放されるのは、死んだものだけだ。俺達はまだ、生きているから」
「……ファルファイ、……」

 力強い言葉。朝焼け色の少年にとって、夜明け色の少年が、世界の全てだった。
 そしてきっと夜明け色の少年にとって、朝焼け色の少年が、世界の理屈だった。

「俺がいる。俺がお前を守ってやる」

 だから、


「――――――逃げよう。」


 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年の手を引いて、駆け出した。一切の迷いの無い瞳。
 夜明け色の少年の瞳の端には、水晶にも似た硝子のような涙が、あった。
 部屋に取り残されたのは、命を奪われた、赤い、二度と動かない、一つの屍。


 ――――――そして、一つの例外も無く、時は進んで、進み続けて、巡り続けて。



01−1→

それは 君と僕と 銀色の月と
水にとけてきえた 花のひみつ

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