いつか、 僕らの正しさで殺した誰かは 声もなく 音もなく とけていって それで良かったはずでしょう? それは 君と僕と 銀色の月と 水にとけてきえた 花のひみつ |
黒い色で染まる空、銀色の月が浮かぶ真夜中だった。 賢者と彼女は、そこにいた。 「何故、あたしを呼んだの? 賢者様」 彼女はブロンドの髪をかき上げ、ヒスイの瞳で賢者を睨む。美しい顔は憎悪に満ちて。 真夜中のような黒いローブで顔の半分を隠した賢者は、彼女を見て、ぽつりと言った。 「……知りたかったから……」 「知りたかった? 何を? 暗殺者だったあたしから、偉大な賢者様が」 端から覗いた黒い瞳。彼女は、顔にかかる前髪を払い、ぶっきらぼうに一言、尋ねる。 しかし賢者は、彼女の瞳には怯えない。静かな声で、目の前を確かめるように答えた。 それは、真夜中の下で、灯りを探す子供に似ていたかもしれない。全てが、手探りの。 「……人を引きつける、人の心。わたしは、人を愛することが、できないから」 「愛さない、の間違いではないの? …まあいいわ。あたしは感謝しているの」 賢者様、貴方に―――そう言って、彼女は口の端を上げて、獰猛な獣のように、笑う。 「この手で『水晶』を、殺すことができるなんて。賢者様、貴方に感謝するわ」 「……『水晶』……」 ぽつり、と賢者は呟く。彼女は、それはそれは嬉しそうに、右手を、空にかざした。 黒い色で染まる空、銀色の月が浮かぶ真夜中だった。 背の低い賢者は彼女を呼び、美しい彼女は賢者に感謝をした。 音の無い大地の上には、魔方陣が描いてあり、 賢者と彼女は、その中心に立っていた。そして、手のひらを合わせて契約を交わす。 彼女の願いと賢者の願いは、まったく同質ではなかったけれど、同等だった。 彼女の笑い声を耳に留めながら、賢者は黒い瞳を伏せる。 ドレスなんていらない。そう言って、裾を千切り、ズボンをはいた。 長い髪なんていらない。そう言って、短剣を持ち出し、肩より短いところで切った。 赤い靴なんていらない。そう言って、旅人用のブーツを買った。 首飾りなんていらない。そう言って、装飾に使われていた宝石を売った。 いらない。欲しくないものなんて、いらない。 欲しくないものが手に入っても、欲しいものは手に入らない。 いつまでもここにいたら、私は私を失う。 私は違う。私は誰かの人形じゃない。私は自分の意思で自由に動く、『私』だ。 ここにいた方が安全だけれど、ここにいない方が、ずっといい。 不自然に着飾って、私を愛さない誰かの意思に殺されるよりは、マシだ。 ないものねだりだということくらいわかっていたが、それでも我慢ならなかった。 だから私は、家を飛び出した。私が持っていたものを、すべて投げ出して。 私が持ち出したものは、これから旅人になる私に、必要なものばかり。 誕生日にこっそり買ってもらった、旅人用の服。髪を売って買った、少しのパン。 そして、私の力。 「エリューシャリオン」 工房の中、子供はそれの名前を呼んだ。しかし、呼んだ声に対する返事は聞こえない。 「エリューシャリオン。……おーい、エリー? エ・リ・ィー? ……。」 二度目、三度目。そして四度目。やはり、返事は聞こえない。 「…あれー。もしかして、いないのかい? 仕方ないなー、もう」 手に持った羽ペンをくるくると回して、子供は大きな、大きな溜息をついた。 椅子から跳び下り、部屋から出て、辺りを見回すが、何もいなかった。その存在も。 現実を目の前にして、子供は再び溜息をつく。あまり深刻そうではなかった。 「まったく、どうしてあの子は、ボクの命令を無視するんだか。まあ、別にいいけど」 そんなことはまったく重要なことではない。子供は早々と、自分の工房に戻った。 机の上にはたくさんのガラス管があり、ガラス管の中では色のついた水が揺れている。 分厚い本を手にとって、子供は椅子に座った。ガラス管を一つ、傾けた。 「どこに行ったのかな? 殺しに行ったかな。だとしたら、また、街回らないと」 面倒だなあ。と、子供は一人、今度こそとても深刻そうに呟く。 広い部屋。大きな本棚にはぎっしりと、使い古されてぼろぼろの本が詰まっていた。 子供の工房の中には、子供の興味の対象となるものしか置いていない。 「……さて。あの子が帰ってくるまで、ボクはどうすればいいのかな」 ねえ、エリューシャリオン? ふふっ、と笑って、子供は手の中の本をめくる。 そして、二本目のガラス管を、傾けた。途端、白煙が部屋に充満する。 子供は目の前の紐を引いて、カーテンを開けた。風が、ふわりとやって来た。 部屋に充満した白煙を連れ去り、風は再び、旅に出た。 「次に生まれる時はさー。退屈ばかりの人間じゃなくて、風になりたいなー」 そして、風だけが知る場所の旅に、出掛けるんだ。 次、なんて、あったらたまらないけど。 子供の顔は、夢と現実に溢れて。 工房の、外。 子供が名前を呼んだそれは、血まみれの腕を押さえながら、風を目で追っていた。 その場所には、水に咲く花が咲いていた。 水を織ったような衣を纏い、水晶に似た花を飾って、そこに眠り、生きていた。 水性花の咲く限られた場所を歩き、踊り、歌い、そして微笑む。 長い髪の先が、水面に輪を描くのを、楽しそうに、楽しそうに見つめていた。 水に咲く花は、この世のものとは思えないほどの美しさを持つという。 一切の穢れを無に返すほどの魅力。ある種の魔力を携えた、美しさ。 旅人は、罪をあらがうために、赦してもらうために、水に咲く花を求めた。 しかし水に咲く花をその目にしたものは居らず、 ゆえに水に咲く花も、水性花の咲く場所も、すべては語り継がれるだけの曖昧な存在。 水性花とは、水にとける花という意味だ。 水にとけて消える花。水性花を守り生きていく、水に咲く花。 いつまでも変わらない。いつから変わらないのか、わからない。 水に咲く花は、残酷なまでの平等さを持って、今日もそこにいた。 平和だった。空は青く、雲は白く伸びて、風は適度に涼しく、髪を撫でていく。 柵に囲まれた草原の中には、何頭かの、もこもこの羊。羊の背中には、茶色い小鳥。 風にのって漂うのは、隣の家の娘の焼くパンの匂い。そろそろ昼だ、と自覚する。 「……ふあああぁぁ」 青年は柵に背中をまるごとあずけたまま、ゆったりと腕を伸ばした。ついで、欠伸。 一応仕事中だ。仕事中に不謹慎だ。でも、欠伸くらい許してほしい。 薄茶色の髪を結わえ直して、青年の緑色の瞳は、ゆっくり空をゆく雲を追う。 「……平和だなあ」 小さな村。もこもこの羊。親は早くに亡くなってしまったが、何の不便も無い。 退屈は人を殺せると言う言葉がどこかにあるらしいが、別に嫌いではなかった。 あまりにも平凡な日常。あまりにも平凡な自分も、嫌いではないけれど、でも。 「……平和だなあ。 ……本当、平和、としか、言いようも無いくらい、平和だ」 思わず、そう呟きたくなってしまうほど。 世界は、空は、日常は、とてもとても平和だった。 「……う……、あ……っ」 からん、と一つ、音がした後、そこにはナイフがころがっていた。そして、一つの身体。 夜明け色の少年は、ナイフを落とし、命を奪ったその手で、自分の口を押さえる。 赤く赤く、赤く染まった、小さな手。夜明け色の少年は、目を見開いて、そこにいた。 「……リルーヴェル!」 夜明け色の少年の名前を呼んだのは、朝焼け色の少年だった。 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年の置かれた状況を、正確に把握した。 床に倒れた、一つの身体。赤く染まった、少年の、小さな手。ころがったナイフ。 何があったのか、一目でわかった。 朝焼け色の少年は、深く息を吐く。そして。 「……大丈夫。リルーヴェル。俺がいる」 「……でも、……でも、僕は……」 「……大丈夫。リルーヴェル。俺を信じられるだろう?」 「……でも……っ、でも……!」 「リルーヴェル」 がたがたと震える夜明け色の少年の手を、朝焼け色の少年は、そっと握った。 赤く染まる手。ころがったナイフ。命を奪われた、一つの身体。そして少年が二人。 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年を、真っ直ぐに見つめる。少しの迷いも無く。 「俺達は、俺達の正しさで、彼女を殺した。それで良いだろう? 俺達は、まだ、生きている。 楽園を追放されるのは、死んだものだけだ。俺達はまだ、生きているから」 「……ファルファイ、……」 力強い言葉。朝焼け色の少年にとって、夜明け色の少年が、世界の全てだった。 そしてきっと夜明け色の少年にとって、朝焼け色の少年が、世界の理屈だった。 「俺がいる。俺がお前を守ってやる」 だから、 「――――――逃げよう。」 朝焼け色の少年は、夜明け色の少年の手を引いて、駆け出した。一切の迷いの無い瞳。 夜明け色の少年の瞳の端には、水晶にも似た硝子のような涙が、あった。 部屋に取り残されたのは、命を奪われた、赤い、二度と動かない、一つの屍。 ――――――そして、一つの例外も無く、時は進んで、進み続けて、巡り続けて。 |
それは 君と僕と 銀色の月と
水にとけてきえた 花のひみつ