あれをやって、とか、これをやって、とか。 その程度のお願いなら、いっぱいしてきたし、いっぱいされてきた。 例えば、洗濯をしておいて、とか、羊の毛の手入れをしておいて、だとか。 だからオレは、自分がこんなお願いをされてみるなんて、思ってもみなかったのだ。 「僕を、殺して」 なんて。 ――到底、聞けるはずもない、彼の、たった一つの、お願いを。 |
「……へ? 街に? オレが?」 青い空。薄く伸びる白い雲。ざわめく風に、新緑に、もこもこの羊たち。 平和、としか言いようもない平和な日常の中、今日ものんびりと柵に寄りかかり、欠伸をしていた、ごく普通の一般市民――イル=ファートのもとに、ほんのちょっぴり日常を変えるであろう通達が舞い込んだのは、パンの焼ける香りのただよう、昼飯時だった。 王都から少し離れたこの小さな村で、イルは羊飼いをやっていた。 何てことはない、この村に生まれれば、大抵の男子は羊飼いになるのだ。時折、夢を持って王都……村の皆は、街と呼んでいる……に出ていく者もいたが、その大半が一年程で、こののんびりした村に帰ってくる。幼いころから生まれ育った、平和、としか言いようもない日常が、幸せなのだと痛感して。 そしてイルは、特に大きな夢を持たず、自分の能力に見合っただけの生活ができればいいと考える、なんともやる気の無いごく普通の一般市民であった為、街に出るなどという考えよりも先に、一生をこの村で過ごすと決めていた、そんな青年だった。 「ああ。ほら、この間、糸紡ぎの針折れて、取り替えただろ?」 「あー……。……ああ。そうだな、うん」 柵に寄りかかり、相変わらず欠伸をしているイルを呼んだ兄…エルハは、昼食の用意をしながらイルに事のあらましを説明する。 イルが街へ出掛けることとなったその理由を、本人はいつもの調子でのんびりと、しかしやはりちょっと驚きながら、聞いていた。 「で、そうしたら、針の予備が後少しになっちまってな」 「……あ、で、オレに買いに行け、と? いつもは兄貴が行くのに?」 「お前もいい加減、一度くらい街に行っとけってことだよ」 街に働きに行かないやつなんて、珍しくもないけど、一度も街に出たことがないっていうのは、本当に珍しい。 そう言って笑うエルハを、少し申し訳なさそうにイルは見る。 そうだ、確かにイルは、村の外に出たことが無い。いや無いわけでは無いが、あれは外に出たという枠には入らない。逃げ出した羊を捕まえに、ちょっと外に飛び出したというレベルなのだから。はっきり言わなくても、外出、ではなかった。 「……まあ、行けって言うなら、行くけど」 世間知らずも、いい加減止めたいところだったから。イルの決断は、早かった。 「っというわけで、イル! さあそうと決まれば荷作りだ」 「え。もう? 一週間後とかじゃなくて? 今?」 にっこりと笑って、エルハはイルの手を引く。自分の決断も早いと思うが、兄のこの行動はもっと早いのではないかと思え、イルは慌てた様子で、エルハの横顔に尋ねた。 「できれば今、だな。大丈夫任せろ、実はもう荷物はまとめてあるんだ」 「……それ、オレが荷作りするって言わないんじゃ」 「後はお前が自分の結い紐を詰めれば終わりだ!」 「っていうか、オレ、まだ羊……」 「羊はいいから。俺とウルイに任せろ、ほら準備だ、さあ出発だ!」 ぐいぐいと手を引っ張られるイル。この兄は普段は押しに弱くてぼんやりしているが、こういう時ばかり頑固でしっかりしている。ああ大した兄を持ったものだとほんの少し悲しくなって、イルは真昼の空を仰いだ。 青い空。薄く伸びる白い雲。パンの焼ける香ばしい匂いは、隣の家から漂ってくるものだ。村に一軒だけの、小さなパン屋。昼飯時に買いにいけば、一人娘が、かならずおまけをしてくれる、そんなお店。 エルハに腕を引っ張られながら、イルは娘に、心の中で、しばらくお別れだと呟いた。 「……じゃあ、行ってくるな。羊、逃がさないでくれよ」 結局あれこれとあって、出発は空が夕焼け色に染まるころになってしまった。 村の入り口に、イル=ファートは立っていた。肩に担げる程度の荷物を背負い、実に旅人らしい、砂色のローブを纏って。 薄茶色の髪は、いつものように三つ編みにされていたが、風に吹かれて、かなりぐちゃぐちゃになっていた。気づいていないのか気づいていないふりをしているのか、単に面倒なだけなのか、イルはそれを気にしない。 そして、イルを見送りに来た、兄エルハと、妹ウルイ、そして、隣の家の娘も。 「うん! わかってる、わかってる」 「お前、本当、いっつも羊のことばっかりなんだな」 働き者の真面目な弟を持って感謝してるよ、と言うエルハに笑いかけ、イルはウルイの頭を撫でる。 風が吹き、布を適当に巻いただけのマントが舞う、夕焼け色の空、真っ赤に染まった草原。 イルが生まれてからずっと、平和と思い、好きだった景色だ。そしてきっと、これからも。 しばらくお別れだ、と呟き景色に目を細めるイルに、エルハは言うべきことを言う。 「で、イル。わかってるよな? 赤い屋根の二階建ての建物だぞ」 「ああ、わかってるよ――そこが、兄貴の知り合いのやってる宿屋なんだろ」 まったくもって準備が良い、と。もしかして追い出すつもりだったのか、と。 半分本気の半分冗談で、イルとエルハは笑いあう。一生縁の切れない、変わらない家族の姿。どうも掴みどころのない兄と、可愛い盛りの妹。 そして、妹の姉的存在の、隣の家の娘。 「イル」 「ん?」 娘はイルを呼ぶ。取り立てて美形でも無ければ、気の毒になるほどの顔でもない。青年という枠にぴったりはまる、青年らしい、普通の青年。 一般市民の、イル=ファート。 「ゆっくり、街を見物して。早く、帰ってきてね」 「……ああ」 ふわり、とイルは、娘の頭を撫でた。誰のそれとも違う、優しい、優しい体温。 ほんの少し頬を染めた娘に、イルは、はにかむように微笑んだ。 「それじゃあ」 それはほんの、ほんの少しの間だけの旅。 普通の青年が、世界の端を、ちょっとだけ見てくるだけの。 「行ってくる――」 イルは、その日初めて、生まれ育った村を出た。 風に、夕焼け空に、赤く染まった草原に、家族に、娘に、いろいろなものに祝福された期間限定の短い旅は、何の問題も苦労も無く、終わるようにできていたはずだった。針を買いに行くだけの、小さな仕事。 ささやかな期待と、ほんの少しの面倒くささを、その胸にかくして。 白いシャツに、深い緑色のズボン。毎日履いているブーツに、砂色のローブ。 薄茶色の髪は、とても適当に、三つ編みにされている。 緑色の瞳は、平和の象徴であるかのような空を、追い続けて。 広い世界、大きな国の、小さな村の一般市民、イル=ファートは、旅に出た。 世界のかたすみでひっそりと起こる出来事の、一番はじめだと、知らないで。 |