あれをやって、とか、これをやって、とか。
 その程度のお願いなら、いっぱいしてきたし、いっぱいされてきた。
 例えば、洗濯をしておいて、とか、羊の毛の手入れをしておいて、だとか。
 だからオレは、自分がこんなお願いをされてみるなんて、思ってもみなかったのだ。

「僕を、殺して」

 なんて。
 ――到底、聞けるはずもない、彼の、たった一つの、お願いを。

  水性花  

01−1 窓枠の外へ

「……へ? 街に? オレが?」

 青い空。薄く伸びる白い雲。ざわめく風に、新緑に、もこもこの羊たち。
 平和、としか言いようもない平和な日常の中、今日ものんびりと柵に寄りかかり、欠伸をしていた、ごく普通の一般市民――イル=ファートのもとに、ほんのちょっぴり日常を変えるであろう通達が舞い込んだのは、パンの焼ける香りのただよう、昼飯時だった。

 王都から少し離れたこの小さな村で、イルは羊飼いをやっていた。
 何てことはない、この村に生まれれば、大抵の男子は羊飼いになるのだ。時折、夢を持って王都……村の皆は、街と呼んでいる……に出ていく者もいたが、その大半が一年程で、こののんびりした村に帰ってくる。幼いころから生まれ育った、平和、としか言いようもない日常が、幸せなのだと痛感して。

 そしてイルは、特に大きな夢を持たず、自分の能力に見合っただけの生活ができればいいと考える、なんともやる気の無いごく普通の一般市民であった為、街に出るなどという考えよりも先に、一生をこの村で過ごすと決めていた、そんな青年だった。

「ああ。ほら、この間、糸紡ぎの針折れて、取り替えただろ?」
「あー……。……ああ。そうだな、うん」

 柵に寄りかかり、相変わらず欠伸をしているイルを呼んだ兄…エルハは、昼食の用意をしながらイルに事のあらましを説明する。
 イルが街へ出掛けることとなったその理由を、本人はいつもの調子でのんびりと、しかしやはりちょっと驚きながら、聞いていた。

「で、そうしたら、針の予備が後少しになっちまってな」
「……あ、で、オレに買いに行け、と? いつもは兄貴が行くのに?」
「お前もいい加減、一度くらい街に行っとけってことだよ」

 街に働きに行かないやつなんて、珍しくもないけど、一度も街に出たことがないっていうのは、本当に珍しい。
 そう言って笑うエルハを、少し申し訳なさそうにイルは見る。
 そうだ、確かにイルは、村の外に出たことが無い。いや無いわけでは無いが、あれは外に出たという枠には入らない。逃げ出した羊を捕まえに、ちょっと外に飛び出したというレベルなのだから。はっきり言わなくても、外出、ではなかった。

「……まあ、行けって言うなら、行くけど」

 世間知らずも、いい加減止めたいところだったから。イルの決断は、早かった。

「っというわけで、イル! さあそうと決まれば荷作りだ」
「え。もう? 一週間後とかじゃなくて? 今?」

 にっこりと笑って、エルハはイルの手を引く。自分の決断も早いと思うが、兄のこの行動はもっと早いのではないかと思え、イルは慌てた様子で、エルハの横顔に尋ねた。

「できれば今、だな。大丈夫任せろ、実はもう荷物はまとめてあるんだ」
「……それ、オレが荷作りするって言わないんじゃ」
「後はお前が自分の結い紐を詰めれば終わりだ!」
「っていうか、オレ、まだ羊……」
「羊はいいから。俺とウルイに任せろ、ほら準備だ、さあ出発だ!」

 ぐいぐいと手を引っ張られるイル。この兄は普段は押しに弱くてぼんやりしているが、こういう時ばかり頑固でしっかりしている。ああ大した兄を持ったものだとほんの少し悲しくなって、イルは真昼の空を仰いだ。
 青い空。薄く伸びる白い雲。パンの焼ける香ばしい匂いは、隣の家から漂ってくるものだ。村に一軒だけの、小さなパン屋。昼飯時に買いにいけば、一人娘が、かならずおまけをしてくれる、そんなお店。

 エルハに腕を引っ張られながら、イルは娘に、心の中で、しばらくお別れだと呟いた。

* * *

「……じゃあ、行ってくるな。羊、逃がさないでくれよ」

 結局あれこれとあって、出発は空が夕焼け色に染まるころになってしまった。

 村の入り口に、イル=ファートは立っていた。肩に担げる程度の荷物を背負い、実に旅人らしい、砂色のローブを纏って。
 薄茶色の髪は、いつものように三つ編みにされていたが、風に吹かれて、かなりぐちゃぐちゃになっていた。気づいていないのか気づいていないふりをしているのか、単に面倒なだけなのか、イルはそれを気にしない。
 そして、イルを見送りに来た、兄エルハと、妹ウルイ、そして、隣の家の娘も。

「うん! わかってる、わかってる」
「お前、本当、いっつも羊のことばっかりなんだな」

 働き者の真面目な弟を持って感謝してるよ、と言うエルハに笑いかけ、イルはウルイの頭を撫でる。
 風が吹き、布を適当に巻いただけのマントが舞う、夕焼け色の空、真っ赤に染まった草原。
 イルが生まれてからずっと、平和と思い、好きだった景色だ。そしてきっと、これからも。
 しばらくお別れだ、と呟き景色に目を細めるイルに、エルハは言うべきことを言う。

「で、イル。わかってるよな? 赤い屋根の二階建ての建物だぞ」
「ああ、わかってるよ――そこが、兄貴の知り合いのやってる宿屋なんだろ」

 まったくもって準備が良い、と。もしかして追い出すつもりだったのか、と。
 半分本気の半分冗談で、イルとエルハは笑いあう。一生縁の切れない、変わらない家族の姿。どうも掴みどころのない兄と、可愛い盛りの妹。
 そして、妹の姉的存在の、隣の家の娘。

「イル」
「ん?」

 娘はイルを呼ぶ。取り立てて美形でも無ければ、気の毒になるほどの顔でもない。青年という枠にぴったりはまる、青年らしい、普通の青年。
 一般市民の、イル=ファート。

「ゆっくり、街を見物して。早く、帰ってきてね」
「……ああ」

 ふわり、とイルは、娘の頭を撫でた。誰のそれとも違う、優しい、優しい体温。
 ほんの少し頬を染めた娘に、イルは、はにかむように微笑んだ。

「それじゃあ」

 それはほんの、ほんの少しの間だけの旅。
 普通の青年が、世界の端を、ちょっとだけ見てくるだけの。

「行ってくる――」

 イルは、その日初めて、生まれ育った村を出た。
 風に、夕焼け空に、赤く染まった草原に、家族に、娘に、いろいろなものに祝福された期間限定の短い旅は、何の問題も苦労も無く、終わるようにできていたはずだった。針を買いに行くだけの、小さな仕事。
 ささやかな期待と、ほんの少しの面倒くささを、その胸にかくして。

 白いシャツに、深い緑色のズボン。毎日履いているブーツに、砂色のローブ。
 薄茶色の髪は、とても適当に、三つ編みにされている。
 緑色の瞳は、平和の象徴であるかのような空を、追い続けて。


 広い世界、大きな国の、小さな村の一般市民、イル=ファートは、旅に出た。
 世界のかたすみでひっそりと起こる出来事の、一番はじめだと、知らないで。


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