「……体内時計って、恐ろしいな、つくづく」 東の空が薄っすらと白んでいた。藍色の空の中には、白銀色の星が散らばっていて、到底まだ、夜明けとも朝焼けとも言えない。 ほとんど誰も起きていないこの時間、イルは、いつものように目を覚ました。村で羊飼いをやっていた身体には、これくらいの時間に起床するように、という習慣が、しっかりと染みついている。 リルーヴェルとファルファイを起こさないよう、細心の注意を払いながら着替えて、イルはこっそりと部屋を抜け出してきた。 わずかに色を変えている空。冷たい空気。桟橋まで歩いてみたが、誰ともすれ違わなかった。昼間の喧騒が嘘のような静けさ。それでも、こんな静寂は嫌いではなかった。 桟橋に腰を下ろし、ブーツを脱ぐ。素足を海の水に浸しながら、イルはぼんやりと空を見上げた。 夜ではない、朝が近い時間の、特有の空の色。 人生は、何が起こるかわからない、というのは、随分前に滅びた世界で生まれた言葉だというが、イルは最近、ようやくその言葉の意味を理解しかけていた。 はっきり言って、悪い夢か、もしくは物語のようだと思う。 世界を揺らがせる『水晶』、それを盲目的に守るかつての英雄、その英雄の婚約者の、ある一つの国の王女。呆れるほど豪華な顔ぶれである。イル的に嬉しいのかというと、ちっとも嬉しくはなかったが。第一イルは未だ、殺す、という概念すら、よく理解できていないというのに。 日々の糧を得るために、必要最低限の動物達を手にかけるのとは、また違うだろうと思う。人が、人を、殺すこと…。 「……。……あー、だめだ、さっぱりわかんねえ」 空を見ながら、イルは大きく溜息をついた。片足を、海の中からはねあげる。水飛沫が飛んで、水面に小さな輪を作った。それが消えていくのを、じっと眺めていた。 ――その時。 「何が、わからないの?」 「っ!」 後ろから急に声をかけられ、イルは言葉通り、息が詰まるほど驚いた。呼吸がままならず、咳き込んでしまったイルは、何とか呼吸を整えながら、振り向いた。 「……――」 そこには。 ――美しい少女が、いる。 「……え、あ……?」 「こんばんは。それとも、おはようございます、かな?」 意志の強そうな顔は、整ってはいたが、リルーヴェルのように綺麗なわけでも、ティティのように可愛らしいわけでもない。 纏った白い服は、異国のもののように見えたが、宝石で飾り立ててあるわけでもなく、むしろ質素だ。 水を映したような長い髪は、風に揺れて。 右目は赤い金色。左目は青い銀色。 声は、どこまでも清涼で、よく通る。 何の言葉も出てこない。イルはただ、その少女の何かを、美しい、と思った。 「隣にいってもいいかな? 君と話がしたくて」 「え……。……べ、つに、構わない……けど……」 例によってイルは、この少女を知らない。しどろもどろになりながらも、イルは慌てて返事をした。 少女はありがとう、と笑う。唇の端を上げる、強い、強い笑みは、純粋な子供のようにも、世界中を知り尽くした大人のようにも見えた。 不思議な、空気。 「それじゃあ、遠慮無く」 ふわりと足の先をすべらせて、少女はイルの隣にやってくる。生地の薄い衣装の裾をふわりと広げて、傍らに座り、そして少女はにっこりと笑った。 隣の家の娘と、それほど変わらない背丈。顔立ちから見ても、同い年くらいに見える。 ……見える、が。 「……えっと。……貴方……は、……オレより、年上?」 他に訊かなければならないことがあるはずなのに、まず出てきたのはそれだった。 少女は、びっくり顔でイルを見た後に、くすくす、と笑う。とても楽しそうに。 「うん、そうだよ。君より、だいぶ年上。でも、どうして?」 「……つい最近、年齢詐欺にあったもので」 明確にリルーヴェルのことを指していたが、本人はここにはいないので良いだろう。 イルは少女の返事を聞くと、はあぁ、と大きく息を吐いた。やや疲れたような、だけどどこか吹っ切れたような溜息だった。そして改めて、少女をまじまじと見る。 綺麗でもなく、可愛らしいわけでもないのに、少女はその声と雰囲気だけで、とても美しい。 何で、こんな人が、自分の隣にいるのだろう。どうして、自分と、話をしたいなんて? とにかく落ち着け、とイルは自分に言い聞かせる。 つい最近、立て続けに起こった非日常は、確実にイルの平常心を強くしていた。 「えぇ……と……。……話? オレに、何か……」 「うん。その前に、君の名前を教えてくれる?」 「あ……。……えっと、イル。イル=ファート」 少女に促され、イルはさらりと答えた。かなり進歩している、と、自分で思う。 「イル。イル=ファート。どうもありがとう」 教えられた名前を繰り返し、少女はやはり、にっこりと笑った。かかとにつきそうな程に長い髪が、背中で揺れている。水にたゆたっているみたいだな、と思った。 「わたしの名前は、しろ」 「……『しろ』?」 「ずっとずっと前に滅びた世界のコトバで、汚れの無い、という意味なのよ」 少女――しろは、そう言うと、まるで大人のように笑う。 しろ。 ……不思議な響きだ。 イルは少女を見、そして、一呼吸置くと、腹を括って、話し始めた。 「えっと……。……しろ、さん?」 「し・ろ」 「……しろ。……えっと、オレに、何か用?」 「話をしたいだけ。君は、今、何か、悩んでいるような顔をしているから」 「……」 びっくり顔で相手を見つめるのは、今度はイルの方だった。 「……オレって、わかりやすい顔、してる?」 「うん。でもそれは、素直で、嘘がつけない、とても素適なことだと思うよ」 子供のように屈託無く笑って、しろは言う。 褒められたのだとは思うが、イルはやっぱり落ち込んだ。要するに、やはり、わかりやすい単純な性格だということだ。嘘をつくのが得意だと言われるよりはマシかもしれないが、素直に喜ぶことはできない。 溜息をついたイルに、しろは、大人のように落ち着いた瞳で、語りかける。 「わたしは、君のことを何も知らないよ。だから、何でも話して」 「……」 命令ではない、だが、――流れに引き込むような笑顔と、声だった。 「……オレ……、……自分のこと、普通だと思ってたんだ」 その笑顔と、声に引き込まれ、イルは、心のうちを話し出す。 しろは笑顔のまま、真っ直ぐにイルの瞳を覗き込んで。長い髪が、水のように揺れる。 「……何の取り得も無いけど、悪い意味でも特別じゃない、って。平和な村に住んでて、家族がいて、幼馴染の女の子がいて…、本当、普通だって。 この、今の旅に、出るまでは」 イルは、話しながら思い出す。 夕焼けの中、必ず帰ってくることを、まるで当たり前のように約束しながら村を出てきた、数日前。 少女のような青年。それが、出会うはずもなかった『水晶』だったこと。 別の青年に殺されかけ、それがかつての英雄だったこと。 そして昨日、この港町で出会った、事情の深そうな、一国の王女。王女は『水晶』を狙い、かつての英雄と戦った。 当たり前のように宙を舞う剣。王女は頬を傷つけられて、赤い、赤い血を細く流した。 どんなに細い傷でも、命の色。イルにとっては、大切な。 戦争を経験したことはない。 イルの住むこの国は、どの国に対しても中立を誓った、けっして戦争の起こらない国だから。 戦争が起これば、人の命はとても軽いものになるのだと、早くに死んでしまった両親は言っていたが、イルにはさっぱりわからなかった。わかりたくもなかった、本当は。 現実を、目の当たりにして。 ……かつての英雄は、ファルファイは、リルーヴェル以外の命が、とても軽い。 簡単に殺せるというのは、おそらくそういうことだ。 「ただの羊飼い。一般市民。剣も使えないし、魔法なんか、使えるわけない。 ……これが普通だって思ってたのに……、ファルファイも、リルーヴェルも。……昨日会った、女の子も」 ファルファイは、透きとおった剣を、真っ赤に染めて。 リルーヴェルは、ひどく痛そうに、水の魔法を呼んで。 ティティは、軽い身体で跳び、拳を振るい、怪我をした。 「……みんな、戦ってたんだ。……血が流れるような、怪我をしながら。……それが当たり前みたいに、みんな……。 ……オレだけが、動揺してた。……オレだけが、普通じゃなかった」 感じていた疎外感は、これだ。普通だと思っていた、自分だけが違う。 血を流す、なんて、普通であっていいはずがないのに――。 「そうだね。君はあまり、普通じゃないよ」 「……」 黙り込んだイルの横で、しろはきっぱりと言った。 よく通る、美しい声で。 「『水晶』と出会い、英雄と出会い、一国の王女と出会うなんて。 並大抵の運じゃないことは、確か」 「……え? そっち?」 「ああ、けれど、」 普通じゃない、という言葉が指した意味が微妙に違っていることに気づき、イルは顔を上げる。 が、しろはそんなことにはまったく動じず、さらに続けた。楽しそうに。 「人生、何が起こるかわからない、っていうのは、人に等しく与えられたものだもの。 ――やっぱり君は、普通なのかもしれないよ」 「……。」 見るものすべてを無意識に従わせそうな、強い強い微笑み。 汚れの無い、という言葉を意味に持つその人は、重く、しかし軽い調子でそう言った。 その声が、耳に馴染む。 まるで冷たい水の中に浮かんでいるみたいに、やがて奥まで染み込んでいくような感覚。 その微笑みを目の端に捉え、イルは目の前のその人が、リルーヴェルとファルファイに似ていると思った。無条件の存在感。言葉の強さ、色んなことが。 「……」 「君は、何が知りたいの?」 「……オレ、は……」 真っ直ぐ問われ、イルは頭の中を探る。感じていた疎外感。知りたいものは? 息をゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そして。 「……わからない。……わからない、何も、」 ずっと胸の中を支配していた、一つの事実を言葉にして、声に出した。 しろは、うつむいたイルの、目の前で笑っている。 「何が普通なのかわからない。普通が、良いことなのかわからない。 ……殺す、っていうことが、普通なのか、全然わからない。 ……信じていいのか、……自分の、ことも」 自分が、世間知らずだという自覚はあったけど、まさか、こんなに簡単に、人が傷ついて傷つけているなんて、思ってもみなかったのだ。 思えば出会った時、ファルファイの剣は、真っ赤だった。あれは、きっと、ファルファイが、リルーヴェルを狙った、人を……。 そこまで考えて、イルは目を伏せた。 剣を突きつけられた時の冷たさを思い出して、背筋が凍りつきそうになる。あんなに簡単に、殺意を人に向けられるなんて。 それともこれは、広い世界では普通のことなのだろうか。 普通だったら、自分はどうすればいいのか。 わからない、何も。 信じていた平穏が薄れていく気配さえ、信じていいのかも。 言葉にすれば、不安は恐怖というかたちになって、自分の胸の中を塗りつぶしていく。 言葉を失くしたイルに、しろは言った。 「君は、怖いんだね」 そうだ。怖がっている。 「自分が普通だと信じていたものが、普通ではないかもしれないことが。 人が人を殺すことが、当たり前であるかもしれないことが。 君は今までずっと、何も知らなくて、とても優しかったから。そうだね」 「……」 優しいかどうかはわからない。ただ、とても不安だった。自分だけ何も知らないから。 「だけど、」 しろが、その手を伸ばす。イルの薄茶色の髪に触れる指は、水のように冷たい。 「別に、構わないんじゃないかな? それでも」 「……え……?」 ふいに流れ込んだ言葉。イルは顔を上げた。 夜明けも朝焼けも遠い空の色に混ざって、たった一人、しろが、そこにいた。 「だって、君は、イル=ファート、なのだから」 「……」 「リルーヴェルでもない、ファルファイでもない。ティティという名前の女の子でもない」 髪に触れる指の冷たさが、イルの頭を冷静にしていく。 糸がほどけていくようだった。 「わたしは、君のことはわからない。君も、わたしのことはわからない。 世界は、知らないことばかり。他人のことが、簡単にわかるわけがない。 でも、知ろうとするのなら、わからなくても、いいと思う」 まるっきり子供のようなのに、歳をとった大人のような声。 そうだ。――水のようだと、思ったのだ。抗うこともせず、染み渡るのを待つしかない、凶暴で優しい、罠の名前。 世界で一番綺麗なところには、水に花が咲いているというけれど、もしそんな場所があるのなら、この少女のような場所なのだろうかと思った。 「殺すことが怖くない人がいるのなら、殺すことが怖い人がいるのは当然でしょう。 わからないことが怖いなら、わかろうとすればいい。……違うかな」 「…………、」 にっこり笑うしろを、イルは黙って見つめた。 ざあ、と、風が吹く。海が寄せて、返す音。 夜明けと朝焼けが近づいてくる、独特の空気と、その冷たさ。 そんなことは、変わっていない。――イルが、安心したように、息を吐いた。 「……うん。そうだな。 ……正直、しろの言うこと、全部は理解できない…んだけど」 イルは桟橋に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。青年の横顔を、しろは目で追う。水平線を見つめるイルの緑の瞳は、故郷とは反対の方角を向いている。 「……わからなくて、……いいのかな。まだ。……巻き込まれるのは、怖い……けど」 「うん」 「……この怖さが、無くなるぐらいのことだけは……、……できるだけ、知っていけば」 それは、人を殺すことを覚える、ということではない。 世界の本当の姿を。 知って、拒否するのではなく、受け入れようという決意。 「うん。……それでいいと、わたしは思うよ」 「……そうだな。……ありがとう。しろ。 ……初めて会った人に、こんな話、……ごめん、」 そう言って苦笑するイルは、いつも通りの顔をしていた。村にいたのと同じ、優しい。 もちろんそんな自覚はイルには無かったし、しろにわかるはずもない。 「いいえ。わたしが聞きたいと言ったんだもの。……さて、と」 「? しろ?」 だけど満足そうに笑ったしろは、ふいに立ち上がった。長い髪が、さらりと流れる。くるりと振り向くそのしぐさを見ながら、イルは少女の名前を呼んだ。 イルの瞳を見つめ、しろは出会った時と同じ顔で、笑う。水がたゆたうような印象を覚えた。 「行かなくちゃ」 「え? ……ああ、そっか。オレも、帰った方が、いいのかな……」 体内時計に従って起きてしまって、外出なんかしてしまったけれど、起きて自分が部屋にいないと、もしかしたら心配するかもしれない。リルーヴェルが。 心配性のリルーヴェルを不安にさせるのも嫌だったし、それによってファルファイに目をつけられるのも嫌だ。 悩みどうこうを抜きにしても、イルは純粋にファルファイが怖い。 怖い考えに陥ってしまったイルは、ぶんぶんと首を振ると、慌てた様子で持ち直した。 「……じゃあ、本当に、ありがとう」 「うん。わたしも、ありがとう。とても、楽しかった」 やわらかい微笑みで、二人はさよならの言葉を交わす。二人で向き合ったまま、ほんの少しの時間を置いて、二人はそれぞれ、違う方向に足を向けた。 背中の向こうで、離れていく気配。まだそれが近いうちに、イルは急に振り返る。 「……。……なあ。この辺に、住んでるのか? ……また、会えるかな」 ぶしつけかもしれない、とも、唐突だとも、誤解を招くような気がするとも、思った。だけど自然に、こんなことを言っていた。 イルが振り返ったのとほぼ同時に、少女は足を止め、イルの方を向いていた。 強い強い、あの微笑みを向けて、しろは言う。 「会えるよ。絶対に、会える。君が、わたしを見つけられれば」 「……そっか。……ありがとう」 しろの言葉に満足したように笑って、イルは再び背中を向けた。また会えるのなら、構わない。 しろが言うなら、何でもその通りになるような、そんな気がした。 だけど。 少女は、よく通る声で、呟いて。 「次にわたしを見つけたとき、君は、わたしを、殺すかもしれないよ」 「――え……?」 背中に聞こえた声。イルは、振り返る。 「………………」 そこには、何もなかった。 長い髪も、赤い金色も青い銀色も、よく通る声も、強い強い、あの微笑みも。 桟橋の下の水面に、波紋が広がっていただけで。 立ち尽くすイルの瞳に、夜明けと朝焼けの近い空だけが、その色をはっきり映していた。 ←02−5 04−1→ |