水性花  

03 夢の中で

「……体内時計って、恐ろしいな、つくづく」

 東の空が薄っすらと白んでいた。藍色の空の中には、白銀色の星が散らばっていて、到底まだ、夜明けとも朝焼けとも言えない。
 ほとんど誰も起きていないこの時間、イルは、いつものように目を覚ました。村で羊飼いをやっていた身体には、これくらいの時間に起床するように、という習慣が、しっかりと染みついている。

 リルーヴェルとファルファイを起こさないよう、細心の注意を払いながら着替えて、イルはこっそりと部屋を抜け出してきた。
 わずかに色を変えている空。冷たい空気。桟橋まで歩いてみたが、誰ともすれ違わなかった。昼間の喧騒が嘘のような静けさ。それでも、こんな静寂は嫌いではなかった。
 桟橋に腰を下ろし、ブーツを脱ぐ。素足を海の水に浸しながら、イルはぼんやりと空を見上げた。
 夜ではない、朝が近い時間の、特有の空の色。

 人生は、何が起こるかわからない、というのは、随分前に滅びた世界で生まれた言葉だというが、イルは最近、ようやくその言葉の意味を理解しかけていた。
 はっきり言って、悪い夢か、もしくは物語のようだと思う。
 世界を揺らがせる『水晶』、それを盲目的に守るかつての英雄、その英雄の婚約者の、ある一つの国の王女。呆れるほど豪華な顔ぶれである。イル的に嬉しいのかというと、ちっとも嬉しくはなかったが。第一イルは未だ、殺す、という概念すら、よく理解できていないというのに。

 日々の糧を得るために、必要最低限の動物達を手にかけるのとは、また違うだろうと思う。人が、人を、殺すこと…。

「……。……あー、だめだ、さっぱりわかんねえ」

 空を見ながら、イルは大きく溜息をついた。片足を、海の中からはねあげる。水飛沫が飛んで、水面に小さな輪を作った。それが消えていくのを、じっと眺めていた。


 ――その時。


「何が、わからないの?」
「っ!」

 後ろから急に声をかけられ、イルは言葉通り、息が詰まるほど驚いた。呼吸がままならず、咳き込んでしまったイルは、何とか呼吸を整えながら、振り向いた。


「……――」


 そこには。
 ――美しい少女が、いる。


「……え、あ……?」
「こんばんは。それとも、おはようございます、かな?」

 意志の強そうな顔は、整ってはいたが、リルーヴェルのように綺麗なわけでも、ティティのように可愛らしいわけでもない。
 纏った白い服は、異国のもののように見えたが、宝石で飾り立ててあるわけでもなく、むしろ質素だ。
 水を映したような長い髪は、風に揺れて。
 右目は赤い金色。左目は青い銀色。
 声は、どこまでも清涼で、よく通る。

 何の言葉も出てこない。イルはただ、その少女の何かを、美しい、と思った。

「隣にいってもいいかな? 君と話がしたくて」
「え……。……べ、つに、構わない……けど……」

 例によってイルは、この少女を知らない。しどろもどろになりながらも、イルは慌てて返事をした。
 少女はありがとう、と笑う。唇の端を上げる、強い、強い笑みは、純粋な子供のようにも、世界中を知り尽くした大人のようにも見えた。
 不思議な、空気。

「それじゃあ、遠慮無く」

 ふわりと足の先をすべらせて、少女はイルの隣にやってくる。生地の薄い衣装の裾をふわりと広げて、傍らに座り、そして少女はにっこりと笑った。
 隣の家の娘と、それほど変わらない背丈。顔立ちから見ても、同い年くらいに見える。
 ……見える、が。

「……えっと。……貴方……は、……オレより、年上?」

 他に訊かなければならないことがあるはずなのに、まず出てきたのはそれだった。
 少女は、びっくり顔でイルを見た後に、くすくす、と笑う。とても楽しそうに。

「うん、そうだよ。君より、だいぶ年上。でも、どうして?」
「……つい最近、年齢詐欺にあったもので」

 明確にリルーヴェルのことを指していたが、本人はここにはいないので良いだろう。

 イルは少女の返事を聞くと、はあぁ、と大きく息を吐いた。やや疲れたような、だけどどこか吹っ切れたような溜息だった。そして改めて、少女をまじまじと見る。
 綺麗でもなく、可愛らしいわけでもないのに、少女はその声と雰囲気だけで、とても美しい。

 何で、こんな人が、自分の隣にいるのだろう。どうして、自分と、話をしたいなんて?
 とにかく落ち着け、とイルは自分に言い聞かせる。
 つい最近、立て続けに起こった非日常は、確実にイルの平常心を強くしていた。

「えぇ……と……。……話? オレに、何か……」
「うん。その前に、君の名前を教えてくれる?」
「あ……。……えっと、イル。イル=ファート」

 少女に促され、イルはさらりと答えた。かなり進歩している、と、自分で思う。

「イル。イル=ファート。どうもありがとう」

 教えられた名前を繰り返し、少女はやはり、にっこりと笑った。かかとにつきそうな程に長い髪が、背中で揺れている。水にたゆたっているみたいだな、と思った。

「わたしの名前は、しろ」
「……『しろ』?」
「ずっとずっと前に滅びた世界のコトバで、汚れの無い、という意味なのよ」

 少女――しろは、そう言うと、まるで大人のように笑う。
 しろ。
 ……不思議な響きだ。

 イルは少女を見、そして、一呼吸置くと、腹を括って、話し始めた。

「えっと……。……しろ、さん?」
「し・ろ」
「……しろ。……えっと、オレに、何か用?」
「話をしたいだけ。君は、今、何か、悩んでいるような顔をしているから」
「……」

 びっくり顔で相手を見つめるのは、今度はイルの方だった。

「……オレって、わかりやすい顔、してる?」
「うん。でもそれは、素直で、嘘がつけない、とても素適なことだと思うよ」

 子供のように屈託無く笑って、しろは言う。
 褒められたのだとは思うが、イルはやっぱり落ち込んだ。要するに、やはり、わかりやすい単純な性格だということだ。嘘をつくのが得意だと言われるよりはマシかもしれないが、素直に喜ぶことはできない。
 溜息をついたイルに、しろは、大人のように落ち着いた瞳で、語りかける。

「わたしは、君のことを何も知らないよ。だから、何でも話して」
「……」

 命令ではない、だが、――流れに引き込むような笑顔と、声だった。

「……オレ……、……自分のこと、普通だと思ってたんだ」

 その笑顔と、声に引き込まれ、イルは、心のうちを話し出す。
 しろは笑顔のまま、真っ直ぐにイルの瞳を覗き込んで。長い髪が、水のように揺れる。

「……何の取り得も無いけど、悪い意味でも特別じゃない、って。平和な村に住んでて、家族がいて、幼馴染の女の子がいて…、本当、普通だって。
 この、今の旅に、出るまでは」

 イルは、話しながら思い出す。
 夕焼けの中、必ず帰ってくることを、まるで当たり前のように約束しながら村を出てきた、数日前。

 少女のような青年。それが、出会うはずもなかった『水晶』だったこと。
 別の青年に殺されかけ、それがかつての英雄だったこと。
 そして昨日、この港町で出会った、事情の深そうな、一国の王女。王女は『水晶』を狙い、かつての英雄と戦った。

 当たり前のように宙を舞う剣。王女は頬を傷つけられて、赤い、赤い血を細く流した。
 どんなに細い傷でも、命の色。イルにとっては、大切な。

 戦争を経験したことはない。
 イルの住むこの国は、どの国に対しても中立を誓った、けっして戦争の起こらない国だから。
 戦争が起これば、人の命はとても軽いものになるのだと、早くに死んでしまった両親は言っていたが、イルにはさっぱりわからなかった。わかりたくもなかった、本当は。
 現実を、目の当たりにして。

 ……かつての英雄は、ファルファイは、リルーヴェル以外の命が、とても軽い。
 簡単に殺せるというのは、おそらくそういうことだ。

「ただの羊飼い。一般市民。剣も使えないし、魔法なんか、使えるわけない。
 ……これが普通だって思ってたのに……、ファルファイも、リルーヴェルも。……昨日会った、女の子も」

 ファルファイは、透きとおった剣を、真っ赤に染めて。
 リルーヴェルは、ひどく痛そうに、水の魔法を呼んで。
 ティティは、軽い身体で跳び、拳を振るい、怪我をした。

「……みんな、戦ってたんだ。……血が流れるような、怪我をしながら。……それが当たり前みたいに、みんな……。
 ……オレだけが、動揺してた。……オレだけが、普通じゃなかった」

 感じていた疎外感は、これだ。普通だと思っていた、自分だけが違う。


 血を流す、なんて、普通であっていいはずがないのに――。


「そうだね。君はあまり、普通じゃないよ」
「……」

 黙り込んだイルの横で、しろはきっぱりと言った。
 よく通る、美しい声で。

「『水晶』と出会い、英雄と出会い、一国の王女と出会うなんて。
 並大抵の運じゃないことは、確か」
「……え? そっち?」
「ああ、けれど、」

 普通じゃない、という言葉が指した意味が微妙に違っていることに気づき、イルは顔を上げる。
 が、しろはそんなことにはまったく動じず、さらに続けた。楽しそうに。

「人生、何が起こるかわからない、っていうのは、人に等しく与えられたものだもの。
 ――やっぱり君は、普通なのかもしれないよ」
「……。」

 見るものすべてを無意識に従わせそうな、強い強い微笑み。
 汚れの無い、という言葉を意味に持つその人は、重く、しかし軽い調子でそう言った。
 その声が、耳に馴染む。
 まるで冷たい水の中に浮かんでいるみたいに、やがて奥まで染み込んでいくような感覚。
 その微笑みを目の端に捉え、イルは目の前のその人が、リルーヴェルとファルファイに似ていると思った。無条件の存在感。言葉の強さ、色んなことが。

「……」
「君は、何が知りたいの?」
「……オレ、は……」

 真っ直ぐ問われ、イルは頭の中を探る。感じていた疎外感。知りたいものは?
 息をゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そして。

「……わからない。……わからない、何も、」

 ずっと胸の中を支配していた、一つの事実を言葉にして、声に出した。
 しろは、うつむいたイルの、目の前で笑っている。

「何が普通なのかわからない。普通が、良いことなのかわからない。
 ……殺す、っていうことが、普通なのか、全然わからない。
 ……信じていいのか、……自分の、ことも」

 自分が、世間知らずだという自覚はあったけど、まさか、こんなに簡単に、人が傷ついて傷つけているなんて、思ってもみなかったのだ。
 思えば出会った時、ファルファイの剣は、真っ赤だった。あれは、きっと、ファルファイが、リルーヴェルを狙った、人を……。

 そこまで考えて、イルは目を伏せた。
 剣を突きつけられた時の冷たさを思い出して、背筋が凍りつきそうになる。あんなに簡単に、殺意を人に向けられるなんて。
 それともこれは、広い世界では普通のことなのだろうか。
 普通だったら、自分はどうすればいいのか。

 わからない、何も。
 信じていた平穏が薄れていく気配さえ、信じていいのかも。
 言葉にすれば、不安は恐怖というかたちになって、自分の胸の中を塗りつぶしていく。

 言葉を失くしたイルに、しろは言った。


「君は、怖いんだね」


 そうだ。怖がっている。


「自分が普通だと信じていたものが、普通ではないかもしれないことが。
 人が人を殺すことが、当たり前であるかもしれないことが。
 君は今までずっと、何も知らなくて、とても優しかったから。そうだね」
「……」


 優しいかどうかはわからない。ただ、とても不安だった。自分だけ何も知らないから。


「だけど、」

 しろが、その手を伸ばす。イルの薄茶色の髪に触れる指は、水のように冷たい。

「別に、構わないんじゃないかな? それでも」
「……え……?」

 ふいに流れ込んだ言葉。イルは顔を上げた。
 夜明けも朝焼けも遠い空の色に混ざって、たった一人、しろが、そこにいた。

「だって、君は、イル=ファート、なのだから」
「……」
「リルーヴェルでもない、ファルファイでもない。ティティという名前の女の子でもない」

 髪に触れる指の冷たさが、イルの頭を冷静にしていく。
 糸がほどけていくようだった。

「わたしは、君のことはわからない。君も、わたしのことはわからない。
 世界は、知らないことばかり。他人のことが、簡単にわかるわけがない。
 でも、知ろうとするのなら、わからなくても、いいと思う」

 まるっきり子供のようなのに、歳をとった大人のような声。
 そうだ。――水のようだと、思ったのだ。抗うこともせず、染み渡るのを待つしかない、凶暴で優しい、罠の名前。
 世界で一番綺麗なところには、水に花が咲いているというけれど、もしそんな場所があるのなら、この少女のような場所なのだろうかと思った。

「殺すことが怖くない人がいるのなら、殺すことが怖い人がいるのは当然でしょう。
 わからないことが怖いなら、わかろうとすればいい。……違うかな」
「…………、」

 にっこり笑うしろを、イルは黙って見つめた。
 ざあ、と、風が吹く。海が寄せて、返す音。
 夜明けと朝焼けが近づいてくる、独特の空気と、その冷たさ。


 そんなことは、変わっていない。――イルが、安心したように、息を吐いた。


「……うん。そうだな。
 ……正直、しろの言うこと、全部は理解できない…んだけど」

 イルは桟橋に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。青年の横顔を、しろは目で追う。水平線を見つめるイルの緑の瞳は、故郷とは反対の方角を向いている。

「……わからなくて、……いいのかな。まだ。……巻き込まれるのは、怖い……けど」
「うん」
「……この怖さが、無くなるぐらいのことだけは……、……できるだけ、知っていけば」

 それは、人を殺すことを覚える、ということではない。
 世界の本当の姿を。
 知って、拒否するのではなく、受け入れようという決意。

「うん。……それでいいと、わたしは思うよ」
「……そうだな。……ありがとう。しろ。
 ……初めて会った人に、こんな話、……ごめん、」

 そう言って苦笑するイルは、いつも通りの顔をしていた。村にいたのと同じ、優しい。
 もちろんそんな自覚はイルには無かったし、しろにわかるはずもない。

「いいえ。わたしが聞きたいと言ったんだもの。……さて、と」
「? しろ?」

 だけど満足そうに笑ったしろは、ふいに立ち上がった。長い髪が、さらりと流れる。くるりと振り向くそのしぐさを見ながら、イルは少女の名前を呼んだ。
 イルの瞳を見つめ、しろは出会った時と同じ顔で、笑う。水がたゆたうような印象を覚えた。

「行かなくちゃ」
「え? ……ああ、そっか。オレも、帰った方が、いいのかな……」

 体内時計に従って起きてしまって、外出なんかしてしまったけれど、起きて自分が部屋にいないと、もしかしたら心配するかもしれない。リルーヴェルが。
 心配性のリルーヴェルを不安にさせるのも嫌だったし、それによってファルファイに目をつけられるのも嫌だ。
 悩みどうこうを抜きにしても、イルは純粋にファルファイが怖い。

 怖い考えに陥ってしまったイルは、ぶんぶんと首を振ると、慌てた様子で持ち直した。

「……じゃあ、本当に、ありがとう」
「うん。わたしも、ありがとう。とても、楽しかった」

 やわらかい微笑みで、二人はさよならの言葉を交わす。二人で向き合ったまま、ほんの少しの時間を置いて、二人はそれぞれ、違う方向に足を向けた。
 背中の向こうで、離れていく気配。まだそれが近いうちに、イルは急に振り返る。

「……。……なあ。この辺に、住んでるのか?  ……また、会えるかな」

 ぶしつけかもしれない、とも、唐突だとも、誤解を招くような気がするとも、思った。だけど自然に、こんなことを言っていた。
 イルが振り返ったのとほぼ同時に、少女は足を止め、イルの方を向いていた。

 強い強い、あの微笑みを向けて、しろは言う。

「会えるよ。絶対に、会える。君が、わたしを見つけられれば」
「……そっか。……ありがとう」

 しろの言葉に満足したように笑って、イルは再び背中を向けた。また会えるのなら、構わない。
 しろが言うなら、何でもその通りになるような、そんな気がした。


 だけど。
 少女は、よく通る声で、呟いて。



「次にわたしを見つけたとき、君は、わたしを、殺すかもしれないよ」



「――え……?」



 背中に聞こえた声。イルは、振り返る。


「………………」


 そこには、何もなかった。
 長い髪も、赤い金色も青い銀色も、よく通る声も、強い強い、あの微笑みも。
 桟橋の下の水面に、波紋が広がっていただけで。

 立ち尽くすイルの瞳に、夜明けと朝焼けの近い空だけが、その色をはっきり映していた。



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