「ティティ。こんばんは」 「!」 夜も更けて、港町に響き渡るのが寄せては返す波の音だけになったころ、ティティは自分の名前を呼ばれ、一瞬身体を硬直させた。 びくっ、と肩をはねさせ慌てて後ろを向くと、そこには真昼と変わらず、夕陽の中でも変わらなかった微笑みを携えた、 「……リルー、ヴェル」 リルーヴェルが、いた。……一人で。 桟橋に立ち、夜の水平線を眺めていたティティは、突然の来訪者に驚き、まじまじとその綺麗な顔を見つめる。 灰色の瞳を大きく開いたその顔に、リルーヴェルは更に言った。 「何をしているの? 夜はもう、遅いのに」 「……貴方こそ……。……ファルファイと一緒では、ありませんのね」 規模が大きい分、港町の夜は危険だ。 世界各地の特産品を積んだ船に紛れて、ここには、花売りや奴隷商が辿り着く。陽の光の下では働けないそれらは、夜、暗闇に紛れて動き出す。 見た目が可愛く、か弱く見えるティティもそうとう危ないが、その綺麗さ、童顔に、華奢で背の低い、『水晶』であるリルーヴェルは、この町ではもっと危険に晒される。 それを承知のはずなのに、ファルファイがこの場にいないなんて。 リルーヴェルは、人差し指を唇に軽く当てて、よくとおる声で、言った。 「水に、僕の気配を映してもらったんだ。 ファルファイは、僕が起きるとすぐに起きてしまうけれど、イルもいたから。 ……あなたを探していたんだよ。だから抜け出してきたんだ」 上手く誤魔化せて、良かった――と、リルーヴェルは、子供のように微笑む。それには邪気や強かさなんか、まったく含まれていない。 まるで水晶のように、純粋な……。 ティティは思い出す。昔、戦争の後。 功績を称えるために、ベルガの国王――ティティの父王は、ファルファイを玉座の間に召喚した。 その時、ファルファイの後ろにいた、気の弱そうなリルーヴェルは、部屋の隅に立っていたティティを見つけると、ふんわりと微笑んだ。 何を思ったのか、わかるわけもないが、その頃とまったく変わらない。 いろいろな気が削がれて、ティティはふ、と、気が緩んだように笑う。 「……お久しぶり、ですわね」 「うん。――久しぶり。ティティ」 ティティの笑顔を見て、嬉しそうに笑ったリルーヴェルは、ティティの隣に並んだ。ほとんど変わらない背丈。静かな、波の音。 やがて、リルーヴェルが、口を開いて、ぽつりと言った。 「……ごめんね。ごめんなさい」 「……何故謝りますの? 謝るのは、私の方ではありません?」 「僕の方だよ。……あなたは本当は、ファルファイに会いに来たんでしょう?」 桟橋の向こう、星の光を返してきらきら光る海を見ながら、リルーヴェルはその綺麗な横顔を曇らせる。 その横顔を、ティティは驚いたように見つめた。優しい声。まるで、水が揺れているような瞳。 リルーヴェルは、ぽつり、ぽつりと続ける。 「だって、ファルファイがいれば、あなたはお父様に認められたのに」 「……ご存知、でしたの?」 「うん。……ベルガの国王さまが、呟いていたのを聞いたんだ。……ティティは、」 ベルガの国。そこは、武勇を誇る、騎士の国だ。 国王夫妻の間には、ティティという名前の女児しか生まれていなくて、国王夫妻は焦っていた。 本来この国は、男児が継ぐ、武勇の国なのに。どうして、何で、女児が生まれたのか。どうして男児ではなかったのか。 焦りは、生まれてきた少女に、憎悪のかたちでぶつけられた。 国を大きくしたいのに。 焦っていたところに、戦争が起こって、英雄が現れた。 英雄を捕まえられれば、ベルガの国は大きくなる――そのために、利用される。 「……悲しくは、ないの?」 「……」 だけど。 だけど、ずっと疎まれていた、ティティにとっては。 「……別に……。……確かに父母は、ファルファイと私を婚約させましたわ。かなり無理矢理な方法でしたわね。どちらの同意も得ていない、本当に無理矢理の。 利用された、だけの」 それは、 「……ファルファイがいれば……。……私は、父母に、子供と認められるのでしょうけれど……」 「……」 それは、初めての、両親からの期待だ。それが、単なる利用価値、だとしても。 ティティは、静かに目を伏せる。あの時の、両親の喜びよう。女児ならば、英雄を捕まえられる。英雄は、男児だから。これで国は安泰だと、とても嬉しそうな笑顔を見せて。 その時のファルファイの顔を、ティティはまだ覚えている。 まるで鏡に映った自分の顔のようだと、少し嬉しくなったことも。 「……だから、謝る、なんて仰いますの? リルーヴェル」 「……だって……、」 「貴方が謝ることではありませんわ。むしろ、感謝していますのよ。 ファルファイが、王位より貴方を選んで国を去った時、父母は全ての恨みを私に向けた。 …あの国での私の居場所は、完全に無くなってしまった。だから、私、国を出ようと思えたんですもの」 今、こんな風に。 王位なんていらない。地位なんていらない。何もかもいらない、この身体と、拳一つで城を出たかった子供。 ティティは、まるで大人のような目をして笑う。 「貴方がいなければ、私はずっとあの国にいたのかもしれませんわ」 「……でも……。じゃあどうしてあなたは、……僕を、狙ってきたの?」 小首を傾げて、リルーヴェルはティティの横顔に問う。それは、ただの疑問だった。他意は無い。リルーヴェルの中に生じた、一つの矛盾。 ティティの話が正しいのなら、ティティは自分を狙う必要も、ファルファイを追う必要も無い。ティティが求めたのは、解放という意味の自由という言葉、ただ一つだったのだから。 「……」 ティティは、水面を見つめる。ちゃぷん、と音がしてはじける、淡い水面。 「……一番大切なものが失くなった時……。……人は見境を無くす、と聞きました」 「……?」 ふ、とリルーヴェルの瞳を、ティティは見つめた。水青色の、正しい水晶の瞳。 女顔負けの容姿ですわね、と、ちょっと悔しそうに、ティティは言って。 「……世界の不条理を、自分の不満を、全て誰かのせいにしてしまいたくなる」 「……ティティ……?」 空を見上げる。すべてを飲み込んでしまいそうな、真っ暗闇だった。 一番大切なものが、失くなった時。 いっそこのまま、世界が滅んでしまえばいいとまで、思った。 「ファルファイの所為でも、貴方の所為でもないとわかっていたのに。 悲しくて、どうしようもなくて、私の不幸を、ファルファイと貴方の所為にしてしまっていたんです」 ティティが今着ているのは、ぶかぶかの男物の服だ。女物のドレスではない。その可愛らしい顔には、あまり似合っていない。 けれどティティは、まるでそこにドレスの長い裾があるかのようなしぐさを取ってみせた。両手で空を摘み、広げて深々と頭を下げる。 「だから、謝るのは、わたくしです」 そこで少女は、視線をリルーヴェルに上げてみせて。 「ごめんなさい――」 まるでいたずらを咎められた子供のような、無邪気な顔で笑った。 闇の中。夜の深い、港町。 「……そういえば。お聞きしたいことがありましたの、リルーヴェル」 「? 何?」 まるで、歳の近い姉妹のような二人が、そこにいた。 不幸も何も無い、幸福の象徴であるかのように、二人とも屈託無く、笑って。 「珍しいですわね。ファルファイが、部外者の同行を許可しているなんて」 空には月が無い。銀色の星が、水面をかがやかせる、静かな夜。いろいろなものが溶けた二人は、今は帰路についていた。 これからのことを話した後、今までの話をしながら。 「……部外者?」 桟橋の向こうには、きらきら光る水面と、水の音がしゃらしゃらと広がって。 「イル=ファート。……彼は一体、何者なんですの?」 深い夜。静かな港町。これから進む道を、暗示しているかのような暗闇には、ささやかで儚い、銀色の星だけが、光となって、闇を照らしている。 少女の問いかけに答えは無く、 夜明けの色がここにあっても、本当の夜明けは未だ、遠い。 |