城の吹き抜けの中庭には、満開の花が咲いていた。 どこか遠い国から持ち込まれたという、淡い色の花をつける、一本の樹。 花の傍には、一人の子供。 花のような笑顔で、くるくるまわる。 花の色をした宝石の名前がつけられた、宝石のように綺麗な子供。 『ねえ、ねえ、聞いて。 私はやっと、おまえの名前を、教えてもらったよ』 子供は両腕で到底抱えられない樹の幹にしがみついて、無邪気に笑う。 吹き抜けとなった中庭。花の上には、青い空。風が吹いて、花を散らす。 淡い色の花びらが降る、その下で、子供は笑う。くるくるまわる。 『おまえは、綺麗な名前をしているんだね。 私も、綺麗な名前をつけていただいたみたいだけど、おまえの名前の方が綺麗だ。 私の名前は宝石の名前だけれど、おまえの名前は、花の名前なのだもの』 木洩れ日のように、花が降る。 まるで、子供の声に、答えているかのように。 子供は、ひがな一日、花に寄り添って過ごしている。 起きて、お気に入りの本と一緒に、花の傍へやってくる。 花に寄り添って本を読み、それに飽きたら木洩れ日と一緒に昼寝をする。 花の降る中で、くるくるまわる。 花のような笑顔で。 それは、この国の、この世界の、平穏のしるしだった。 花降る季節はいつまでも終わらず、子供はいつまでも無邪気に笑う。 「……ここ、か?」 「ああ、間違いない。城壁の色。煉瓦に刻まれた紋章。ここだ」 荒れ果てた大地を渡り歩く二人が辿り着いたのは、遠い昔の戦争の、遺跡だった。 ろくに手入れもされていないような短い赤髪の青年は、赤銅色の煉瓦が積まれた元城壁を見上げ、盛大に溜息をついた。それは、心底めんどくさい、といった胸の内がありありとわかる動作で。 隣でそれを見ていた耳のとがった青年は、同じく盛大に溜息をつく。 「あのな、トレハ。……面倒なのはわかるけど、そこまであからさまにしなくても」 「るっせぇな、だって面倒なんだよ。お前はどうなんだよ、セーティ」 「……そりゃあ、僕だって。できれば、関わりたくなんて、なかったさ」 短い赤髪の青年はトレハ。 耳のとがった青年は、セーティというらしい。 「ほら見ろ。ったく、そもそもお前のせいじゃねーか。どーしてくれんだ」 「痛っ!」 遠慮もせず悪態をつきながら、トレハはセーティの長い銀髪を引っ張った。引っ張られたところを痛がってから、セーティは持っていた杖できちんとトレハに報復する。条件反射のようにトレハの頭をぶん殴ってから、セーティは改めて遺跡を見上げた。 崩れた柱。蔦が絡み、苔が繁殖した壁。不気味な鳥、うごめく植物、魔物の気配。 遥か昔は大陸一美しいと言われていた白亜は黒ずんで、過去の威厳など今はもう見る影も無い。 「……悪かったよ。確かに僕のせいだ。トレハが嫌なら、僕一人で行く」 「……。……ったく。……魔術士が、何言ってんだか」 赤髪を手でかき乱して、トレハは大げさに溜息をつく。背中の槍を、手で確かめて。 「一緒に行くに、決まってんだろ。ほら、行こうぜ」 「……。 ……罠も読めない槍術士のくせに、遺跡で下手に進むんじゃない!」 元城壁の崩れたところから、トレハは先に中へ侵入した。 後ろから、セーティが慌てて追いかける。瞳と同じ、碧色の石のついた銀色の杖を抱きしめて。 足を踏み入れた瞬間、セーティは身体を強張らせた。 今まで感じたことの無い、強い魔力。 禍々しい、歪んだ力。 けれど、なによりも、それ以上に――。 「おい、セーティ! 何やってんだよ!」 「うるさい、この体力馬鹿!」 何かから逃れるように首を軽く振って、セーティはトレハを追いかける。 この遺跡は危険だ。強大な、力。 奥に進めば進むほど、きっと危険な目にさらされる。 崩れかけた壁、模様が並べられた天井を見ながら。 二人は、思い出をたどるように、奥へと進む。 『ねえ、ねえ。聞いて』 城の吹き抜けの中庭には、満開の花が咲いていた。 どこか遠い国から持ち込まれたという、淡い色の花をつける、一本の樹。 花の傍には、一人の少年が、立っていた。 その手には、剣を握り締めている。美しい銀色が、光を弾いた。 『父様が、剣を教えてくださるそうだよ。 私は、おまえの傍で、本を読む方が好きだと、そう言ったけれど』 少年は花のような笑顔で、淡い色を見上げている。 背が伸びた、それでもまだ小さな子供。 少年は、歳相応の子供らしい、いたずらを咎められたような顔で。 そしていつものように、淡い色を纏う華やかな樹に、両腕を広げてしがみついた。 剣を。後ろに放り投げたその後で。 『父様は、誰かを守りたいなら、剣を使えなければならないと言ったんだ。 私は、みんなを守らなければならないから、剣を使えなければいけないよね。 おまえの傍に、毎日いることができないのは、ちょっと残念だ』 樹の幹には、五冊の本が散らばっている。 少年のお気に入りの本ばかり。少年は毎日、ここで本を読んでいた。 それを見つめ、そして少年は花を見上げる。 淡い色をつけたまま、花が降る。 『だけど、ねえ。聞いて。 私は、おまえのことが、大好きだよ』 少年は、一日おきにこの花の下へ来ては、こんなことを言っていた。 抱えきれない樹の幹に、しっかりとしがみついて。 それを見ている、少年の従者達。 花の降る中、少年の声は、笑顔は。この国の、世界の、平穏の象徴だから。 『綺麗な名前だね。私は、おまえの名前が、とても好きなんだ。 私の名前は宝石の名前だけれど、おまえの名前は、花の名前だから』 少年が、花の下にいる時間は、だんだん短くなっていく。 一日おきが、二日おき。 やがて一週間に一度になって。 『それでも、』 それでも。 『私はずっと、おまえの傍で、本を読もう。飽きたら、おまえの下で、眠ろう』 花のような笑顔。ふわふわとした声、言葉。 花は、祝福するように、少年を埋め尽くす。 城の吹き抜けの中庭に、いつまでもその季節が終わらない錯覚を抱かせるように。 花が降る。 花が降る、少年が、くるくるまわる。 花降る季節は、いつまでも終わらず、少年の小さな手は剣を握る。 景色にまったくそぐわない、何かの罪のように。 「……っおぉっし! これで終わりっ!」 「っ、……っは、……うん、こっちも……っ」 トレハの槍とセーティの魔法が、植物から派生した魔物をそれぞれ引き裂いて、辺りはようやく静かになった。 外から見たかぎりでは、中で暴れでもすればすぐに崩れてしまいそうだった壁は、思いの他頑丈だった。魔物が毒の粘液を出そうが、トレハが怪力で槍を振るおうが、セーティが魔法をぶっ放そうが、多少石が崩れた程度で、形自体はまったく変わっていない。 お陰で二人は、さして周りに気をつかうこともせずに、魔物を退治することができていた。これがすぐに崩れてしまうような場所ならば、生き埋めにならないように気をつけなければならないのだが。 「どうだ、何か、収穫あったか?」 「いや……」 背中に槍を戻して、トレハはセーティに訊ねる。セーティはといえば、ローブの裾の汚れを手ではたきながら、トレハの方を見ようともせず、ぽつり、と呟くだけで。 「……そうだな、植物の魔物が多いから……。 やっぱり、睨んだとおりじゃないのか」 杖を抱えそう告げたセーティは、辺りをきょろきょろと見回した。魔物の気配は消え、今では感じるのは、古びた遺跡の持つ魔力だけだ。それを確かめてから、セーティは手のひらに、魔法の光を浮かばせた。陽が差し込まない遺跡の中が、照らされる。 頑丈な石で造られた城。くすんだ灰色で埋め尽くされた廊下を、二人は再び歩き始めた。蜘蛛の巣だらけの壁。埃だらけの床。真っ赤な絨毯は黒ずんで、苔に覆われ腐っている。廃墟の臭いが鼻をつく。そして、遺跡が宿した魔力。 「そっちこそ、どうなんだ」 「あー……。」 蜘蛛の巣に怯えながら、トレハは壁に手をつき、難しい顔で立ち止まった。セーティも、隣で立ち止まる。 トレハの、槍を握っていた手は、崩れかけた壁をさぐるように。 「……まあな。いろいろ、わかってきたぜ」 「訊いても、大丈夫か」 手のひらの上、光を壁の方に向けながら、セーティは訊ねた。王家の紋章が刻まれた白い石でできた壁は、すっかり汚れて、二人にとってはただの障害物だ。 足にからむ蔦を追い払って、砂埃に咳き込んで。二人はまだ、立ち止まっている。 「まだ、断片的なものしか、わかんねーけど。 ……子供……。……宝石の名前。剣、四角い空……、…本」 「……」 赤髪の下の蒼い双眸が閉じて、言葉を紡ぐ。 その瞬間。 壁についたトレハの手のまわりに、淡い緋色の光の輪が浮かんだ。 「花」 「……花……」 収束する光。 ふ、と瞳を開けて一言。トレハとセーティは、顔を見合わせる。 やがてどちらからともなく、ほとんど同時に溜息をついた。何の感情も含まずに。 「やっぱりな。だから、植物の魔物、か。 よかったじゃねーか、それだけでもわかって」 「そうだな。これでとにかく、依頼だけはこなせたわけだ。 街を襲う魔物のことを調べてきてほしい、って、確か、それだけだったな? 僕達の、仕事は。 ……人が殺されてるんだから、仕方ないかもしれないけどな……」 「ああ。……ったく、面倒ったらねぇぜ」 心底面倒そうに、トレハは赤い髪を掻き毟った。その場に立っているだけで、蜘蛛の巣が、蔦が、砂埃が、二人の身体を蝕んでいく。 何気なく薄汚れた天井に目を向けると、そこには大嫌いな蜘蛛がいて、トレハはますます不機嫌になった。 「そもそもお前が、酒に酔って、俺らのことをべらべら喋るからだ。畜生」 「だったら、止めてくれれば良かっただろ! 僕がお酒に弱いのは、知ってるくせに」 手にした杖で、セーティはトレハの頭をぶん殴る。集中力の欠落で、手のひらの光がわずかに揺らいだが、それはすぐにもとのかたちを取り戻した。 殴られたところを手でわざとらしく擦って、トレハはセーティを見つめる。 壁についていた手を、離した。 「セーティ」 「うん?」 大きな遺跡だ。城がそのまま、当時の形を一応なりとも保っている。 陽が差し込まない暗い廊下。魔力に押されそうに、なるけれど。 「中庭だ。探すぞ。そこに行きゃあ、終わる」 「……。……わかった」 一言だけを返事にして、トレハもセーティも、それきり何も喋らない。 二人は進む。遺跡の奥。 誰かの思い出を、たどるように。 途中、一部が破損して穴があいた壁から、外が見えた。 灰色に濁った空に雷鳴が轟き、冷たい風が音をたてて鳴いていた。 『ねえ。……ねえ、聞いて』 城の吹き抜けの中庭には、満開の花が咲いていた。 どこか遠い国から持ち込まれたという、淡い色の花をつける、一本の樹。 青年になったその両腕でも、幹を抱えることはできない。 それは、ほんとうに大きな樹の、ほんとうに綺麗な、満開の花だった。 『私はこれから、戦争に行かなくてはいけないんだ。 ……ここから、出る時が来たんだよ』 庭のかたちに切り取られた、四角い、青い空。 澄み渡る空の下、花はいつだって満開で、いつだって降っていた。 腰に剣を提げ、樹の幹に手を置いて、青年は、花の降る中で花を見上げる。 いつまでも、ふわふわとした、平穏の、幸福の、象徴のような、無邪気な笑顔。 『もう、おまえの傍には、いられないかもしれない。 だけど、私は、いつだって、おまえが大好きだよ』 花と同じ色の髪を揺らせて、青年は花に語りかける。 それは、幼い頃からまったく変わらない光景だ。 周りで、騎士達が、その光景を見ている。 この国の、世界の、平穏の印だった。花と同じ色の瞳が、空の青を映す。 『綺麗な名前だね。初めて聞いた時から、ずっと思っていたんだ。 私の名前は、宝石の名前だけれど、おまえの名前は、花の名前なのだもの。 だけど、ねえ、聞いて』 二週間に一度、青年はこの花の下にいた。 花の下で、お気に入りの本を読み、花に包まれて、眠りにつく。 『私は、私の名前を、嫌いなわけではないんだよ。 だって、私の名前の宝石は、おまえと同じ色をしているから』 幼い頃のように、毎日は来られなくなった。だけど心が変わらない。 花が降る。 吹き抜けの中庭を、青年を、風景を、時間を、埋め尽くすような花降る季節。 『おまえのことが、好きだよ。私はおまえのことが、いちばん大好き』 青年は、優しく微笑む。 その瞳に、限りない優しさを込めて。 『行ってくる――』 「……っく!」 「トレハ!」 廊下を曲がった先で、いきなり広い部屋に出くわした。そこが戦場になっていた。 部屋は相変わらず埃っぽく、蜘蛛の巣もあったし、汚れた壁は崩れかけていた。しかしそこには、もっと別のものがいたのだ。 ――二体の、竜。 竜はそれぞれ、翠色と青色をしていたが、二人の目には、竜はどちらも、樹のような質感をしているように見えた。 翠竜の爪に吹っ飛ばされた時に付けられたトレハの傷を、セーティは水の魔法で癒してやる。 そして、真っ直ぐに、二体の竜を見据えた。 「大丈夫か?」 「ああ、悪い。……思ったより硬ぇわ。どーするよ、セーティ?」 「……。……僕の目には、どちらも、樹みたいに見えるけど…」 セーティは目の前に杖を掲げる。碧色の石。 ぐっ、と杖を握る細い腕を見て、トレハは槍を構えた。にっ、と勝気に笑うその後ろで、セーティは全神経を集中させ始めた。杖にはめ込まれた碧色の石が、同じ色の光を放つ。 「オッケー、わかった。……外すなよ!」 トレハはその場で踏み切り、高く跳躍する。真っ直ぐ、二体の竜のいる方向に。 落ちる途中、翠竜がこちらに口を開けるのが見えた。それを見て、トレハは槍を両手で振り下ろす。先端が翠竜の眉間に僅かに刺さったのを支えに、トレハは体重を思いきり前に傾けた。空中で回転し、二体の竜の間に着地する。 その直後、口を開けていた翠竜が、先程までトレハがいた空中に向かって、毒々しい紫色の息を吐いた。 「はあっ!」 着地したその足で、トレハは勢い良く振り向いた。左手に握った槍を、翠竜の背中、右の翼の付け根に突き刺す。もがいた直後、青竜がトレハ目掛けて、牙のような棘がついた尾を振るったが、トレハはそれを回避した。 耳を遠くへ傾ける。 「世界の記憶。空の記憶。真っ赤な記憶よ、蘇れ。思い出せ、我の瞳に宿れ」 透明感のある、魔術士の声。普段のセーティのそれとは違う声が紡ぐのは、魔法の呪文だ。 トレハはそれを耳に留めると、突き刺した槍を抜き、一歩、セーティの位置と反対方向に跳んで下がった。トレハの後ろには、この広い部屋の壁があり、よく見るとそこには、苔で塞がれてしまった扉があった。 青竜が口を開き、氷のような白い炎を吹き出した。横に跳んでそれを避けると、白い炎は壁を焼き、そして凍りつかせた。一体どんな炎なんだか。などということを思っている場合ではなく、トレハは、その直後跳んできた翠竜の牙を避けた。 「瞳に宿した真っ赤な狂気よ、全てを思い出せ。 思い出して、炎に姿を変えて――」 二体の竜の間に、トレハはいる。 動きが鈍いことが、この竜の弱点だ。 詠唱が終わる直前。トレハは地面を蹴り、遥か高く跳躍した。 「――彼の者を焼き滅ぼせ! 戦火よ!」 トレハが空中に跳んだ直後。杖の石が閃光を放ち、二体の竜が、セーティの魔法に包まれた。 樹の肌を焼く、戦いの炎。直撃した翠竜が、炎の熱にのたうちまわりながら、苦しみのままに毒の息を吐く。それは直後、身体ごと、翠竜目掛けて槍を振り下ろしたトレハの左頬を掠めたが、トレハは怯まず、標的の頭に着地した。垂直に、深々と槍を突き刺す。どのような生き物であろうが、頭と目は共通の弱点だ。 「セーティ!」 「わかってる―― ……雷鳴よ、」 翠竜の頭を串刺し状態にしているトレハの背中に、青竜が白い炎を吹いた。身体を捻ってそれを避けたが、炎はトレハの右肩を焼き、薄っすらと氷を張らせた。 「世界よ、空よ、雷鳴を呼べ。記憶よ思い出して、助力せよ。切り裂け」 碧色の石が、閃光を宿す。セーティは真っ直ぐに、青竜を睨んだ。トレハが翠竜に槍を残したまま、床に飛び降りる。 「翼を、瞳を、滅ぼせ――雷鳴よ!」 瞬間、青竜の真上の天井が、音をたてて割れた。轟音と共に、白い光が青竜の翼に降り注ぐ。 雷は、同時に青竜の頭を焼いた。首の後ろが切れ、真っ赤な血が弾け飛んだ。 「……」 「……」 やがて、炎は静まり、雷は空に帰る。 二体の竜は、音をたてて―― 埃だらけの汚れた床に、崩れ落ちた。 「……。……はー。終わった……」 「トレハ。大丈夫か?」 翠竜の頭から槍を引き抜くと、そこから血が流れ出た。それを見ているトレハの後ろから、セーティが杖を持って声をかける。心配そうな瞳をちらつかせながら。 「ああ、平気だよ。……お前ってさー」 「何だ。……治すから、話すな」 短い詠唱。セーティが瞳を閉じると、トレハの左頬と右肩が、冷たい空気に包まれる。 次にセーティが瞳を開いた時、そこにはわずかな痕が残るだけで、痛みは無かった。 「……よし。これで、大丈夫」 「サンキュ。……で、お前って。案外心配性だよな。無茶な作戦は、いつものことだろ」 右肩をぐるぐる回しながら、トレハは意地悪そうに笑ったが、セーティは反論しなかった。居心地悪そうに、瞳を逸らすだけで。 広い部屋。天井の一部が魔法で欠落していた。その真下に倒れている、二体の竜。 トレハとセーティは息を吐くと、ぐるりと辺りを見渡した。 「この上は……。……やっぱり部屋、か。良かったな、ちゃんと、雷が下りてきて」 壊れた天井を見上げて、トレハが言う。天井の向こうには部屋があり、その部屋の天井もやはり壊れていて、先には灰色の空があった。風に流されても、色を変えない空。 「ああ……、……雷は、この辺では比較的呼びやすいから……」 「天気もたまには役に立つ、ってか。そういえば、炎はずいぶん呼びにくそうだったな」 トレハは天井からセーティに目を向ける。その問いを受けると、セーティは難しい顔をした。唇に指を当て、視線をどこか、別の方に流す。考え事をする時の、彼の癖だ。 「ずいぶん、強い言葉を唱えてただろ。全て、とか、珍しいよな?」 「ああ……。……ここはどうやら、ひどい戦場になったわけじゃ、ないみたいだな」 「それかもしくは、ここの魔力の主が、炎を見ていないかの、どっちか。か」 竜の血を拭った槍を背中に戻す。頭を串刺しにされ、首の後ろを切られた竜は、もう二度と目覚めない。 「……辿ってみるしか、ねーよな……。」 そしてトレハは、壁に手をついた。ふわりと浮かぶ、淡い緋色の光。 蒼色の瞳を閉じるトレハの背中を、セーティが黙って見つめている。 遺跡の持つ記憶を、その手から辿ることのできるトレハ。 空間の記憶をその手に宿して、魔法の力を得るセーティ。 二人の呼び名は、遺跡解析者(レリックアナライザー)、と言った。 「……」 「……中庭……」 トレハは瞳を開くと、部屋の壁を探り出した。埃だらけの、薄汚れ、ひび割れた壁。蜘蛛を見つけるたびに怯えながら、その手はやがて、先程見つけた扉にたどり着く。 トレハは溜息をつくと、こっちに来い、とセーティに手招きをした。 「何か、あったのか」 「ああ。終わりそうだぜ。さっき、竜と戦った時に見つけたんだけどよ、この扉……」 苔に塞がれてしまった、小さい扉。床との境目に蔦が絡み、扉が開くのを防いでいる。 魔力を感じるのは、この先。この先にきっと、魔力の主がいるのだ。 「……中庭って、さっきも言ってたな。この先か」 「ああ――さっきの竜は、きっと、ここを守っていたんだろうな」 二人は、二人揃って、この仕事が大嫌いだった。 二人の特殊な力を羨ましがる輩がいるが、だったらくれてやると言いたくなる。 墓荒らしみたいな真似もさせられた。埃っぽいところも嫌いだ。蜘蛛だって。 そして、何よりも、それ以上に――。 「……行こうぜ」 「……ああ」 二度と目覚めない竜に一度だけ目を向けて、トレハとセーティは扉に手をかけた。悪いなと思いながら、苔を焼き、蔦を切る。 目覚めない扉が、静かに開く。 その先に、何があるのか。大して期待もしていないけれど。 『……っ……。……っは、……はぁ……っ、』 城の吹き抜けの中庭には、満開の花が咲いていた。 どこか遠い国から持ち込まれたという、淡い色の花をつける、一本の樹。 『は……。……っ、く……、……。……っ……』 花の下。 青年は、たった一人でそこにいた。 空は青く、花は変わらず淡い色を降らせている。花が降る。変わらない季節。 『……ねえ。……ねえ、聞いて……』 全身を引きずるように、青年はやってきた。 花と同じ色の髪は血に汚れ、いくつかの束になって固まっている。 足からも、腕からも、真っ赤な命の色を流し、血で汚れて。 右手には、剣を握っていた。 光をはじく銀色に、ひとすじの命が流れていく。 花降る季節。花が、祝福するように降っている。 景色にまったくそぐわない、何かの罪のように。 『……私は……。……ごめんなさい……。逃げ出して、きたんだ……』 樹の根元には、本が重ねられている。 もう幾度と無く、花の下で読み返した、五冊の本。飽きたらここで眠っていた。 それを見て、そして青年は花を見上げる。 いつまでもいつまでも、やむことを知らない、降り続ける満開の花。 『……怖かったんだ。怖くなった。……私は……私が、死んでしまうことも』 ここはとても静かだ。青い空。満開の花が降る。 風がざわざわと、花を散らすだけの音しか、ここにはない。 こんなに静かなのは、ここだけだ。 一歩外に出れば、外はもう、金属の音が鳴り響き、炎が全てを焼く戦場になる。 白亜の王城。吹き抜けの中庭には、一本の樹。 子供は、いつだってここにいた。花の下で、無邪気な笑顔で、くるくるまわっていた。 それは、この国の、この世界の、平穏の証だった。 ずっと変わらないと、確かに、そう思っていた。 『……私が……。……私が、誰かを、殺すことも……』 腕を汚す血は、表面を伝い、指の先からこぼれ、青年の持つ剣に流れていく。 青年は樹にもたれ、手の中から剣をするり、と落とした。 カシャン、と音をたてて落ちた剣の上に、青年の命が雫になって落ちていく。 短い息。青年は、ずるずると座り込む。 花の降る景色。ずっと愛していた、一本の樹の根元に。 『……綺麗な名前だね。私は、おまえの名前が、ずっと羨ましかったんだ。 私の名前は、宝石の名前だけど、おまえの名前は、花の名前なのだもの』 青年は、樹に身体を預けて、花を見上げる。 子供の頃、少年になって、青年になっても、樹を抱えることはできなかった。 平穏の証だった。 大好きな花の傍で、本を読み、花の下で眠りにつく。 『……花の名前が良かった。 ……私は、おまえの傍にいたかったんだ。……花と同じになりたかった』 瞳の中、景色が薄れていく。 幸福の箱庭を、この景色を。子供の心を、無邪気な笑顔を。 人殺しの術を教えて。 壊したのは、何だったのだろう。 『……おまえは、花だから。……大好きな、花だから……。 ……ねえ、私は。ずっとずっと、おまえが大好きだよ』 それでも、青年が変わってしまっても。 剣を握っても、血で汚れても。 花は、花は、いつまでも降っている。 青年を埋め尽くすように。いつまでも終わらない錯覚を抱かせる、花降る季節。 『……私も、花だったら……』 花が降る。 花が降る、青年は、色の無い雫をこぼす。 その瞳に、限りない悲しさを秘めて。 『……花だったら……。……人を、殺さなくて、よかったのに……。』 |