「……」 「……」 そこは、遺跡になった城の、吹き抜けの中庭だった。 「……。……ははは。……何だ、……夢か? これは」 「……。……どうだか。お前と、同じ夢なんて……」 思わず、二人で、そう呟いてしまうほど。 それは、とてもおかしな景色だった。 ――満開の、花。 花、だった。 ここは魔物の気配に満ちた、薄汚れた遺跡だったはずだ。その影など想像することもできないような景色だった。 四角い中庭。空は青く澄み渡り、そこには一本の樹がある。 満開の花が、終わりを知らないように。ざわざわと、風に揺られながら、降っていた。 「……」 こじ開けた扉を開けたところで立ち尽くしていたトレハとセーティは、ようやく一歩踏み出した。地面には、白い綿毛が、絨毯のかわりに咲いている。不可抗力で地面の綿毛を踏みながら、二人は近づいた。 四角い中庭。淡く色づいた、一本の樹に向かって。 静かな場所だ。ざわざわと、風の音。そして、花が降るだけの。 ここが楽園だと言われれば、状況によっては信じてしまいそうな場所だった。 「……」 トレハは片膝をついてしゃがみ、地面に手をついた。あたたかい、陽の光。 この世界の空は灰色の曇り空で、こんなふうに、太陽の光なんか、感じるはずはないのに。 綿毛が舞い、花が降る。セーティはトレハの斜め後ろで、花の方を見つめていた。 「……。……そうか……」 「……トレハ」 目を半分伏せ、ぽつり、と呟いたトレハを、セーティは呼ぶ。立ち上がり、何だと呼び返すと、セーティは一本の樹の方を、ゆっくりとした動作で指差した。 歩き、近づいてみる。 樹の、根元。 花の降りしきる、その中で。 花と同じ色の髪をした、綺麗な青年が。息もたてずに、眠っていた。 「……。女?」 「男だろ。胸が無いから」 本当はそんな会話ができるような状況ではないはずなのだが、二人は図太かった。 杖を握り、セーティは目を閉じる。杖にはめ込まれた石に、碧色の光が浮かぶ。セーティが読むのは、空間の記憶。 その様子を視界の端に入れながら、トレハは花を見上げた。 見事な花だ。花など特に興味は無かったけれど、この花はとても綺麗だと思う。 淡い色。淡い色が風に吹かれて、終わりが無いように降っている。 傍らの青年の髪も同じ色をしていて、やはり風に吹かれて揺れていた。 悲しみの一つだって知らないような、おだやかな寝顔。 「……こいつが……」 ぽつり、とトレハは言う。抑揚の無い、低い声で。 「……トレハ。わかったよ。……やっぱり……」 「ああ。俺も、わかった。ここに、全部、眠ってたみたいだな」 二人は、隣同士で立って、花を見上げた。 花が降る。 その下に、青年が眠っている。 「原因は、お前だ―― ……そうだろう? 花――」 遺跡解析者。 二人がその異名を取る、と知った瞬間、その街の住民の、目の色が変わった。 最初は、建物の被害だけだった。 だが、やがて、被害は人の命に至った。 植物の魔物。この周辺で、魔物が発生しそうなところなど、あの古い城しか無い。 二人は、その名前が嫌いだった。遺跡解析者、という仕事が大嫌いだった。 だから断った。だけど、断りきれなかった。 人の命を侵す魔物。人殺しを、放っておくわけにはいかないのだ。 「昔、ここにあった国は、戦争に巻き込まれたんだな。 小さな国だったけど。占領しようと攻めてこられれば、戦わざるを得ないだろうよ」 トレハは、花に向かって語りだす。その手で辿り、見た、遺跡の持った記憶を。 「ここにあった国は、軍事的にはお世辞にも、強いとは言えない国だった。 長いこと戦争なんか無くて、……まあ、一応……。強くしようとは、思ってたみたいだけど」 花降る季節。 花の降る中、花の下で眠る青年。 辿った記憶の中には、いつだって、花と同じ色の子供がいた。 「お前はこの国にきてから、ずっと、そこの男……王子様と、一緒だったんだな。 この中庭で、本を読んで、眠る王子様。 王子様が、お前を見ていたのと同じで。お前もずっと、王子様を見ていたんだ」 「……ここの風が、覚えている。……花が降ると、幸福に、なるんだって……」 花の下。くるくるとまわる、小さな子供。 記憶を辿っただけで、この場所は幸福そのものだったのだと、わかる。 トレハは記憶を辿った。花の下で笑う子供。子供は記憶の中で、少しずつ背が伸びていく。花のように優しい、綺麗な、無邪気な笑顔が、いつまでも変わらない。 「だからお前は、王子様が剣を教わるのも、本当は嫌だった。 王子様が、自分のところに来なくなるから。 だけど王子様が決めたことで、王子様はお前のことを好きと言っていたから、 それでも別に構わなかった」 それはきっと、一種の恋だったのだろう。 花は、花。 花は言葉を喋らない。だから絶対、答えない。 「とうとう、外の戦争が飛び火してきて、王子様が戦場に出てしまっても。 お前は構わなかった。王子様は、お前を好きと言っていたから。 いつか、王子様が帰る日のために、その花を絶やさなかった…… ……だけど、」 辿って辿って、奥まで行き着いた。最後の記憶。 トレハは遺跡の記憶を、セーティは空間の記憶を見た。 花の下。花の降る中。楽園のようだった中庭に、真っ赤な色を持ち込んだ、青年。 死ぬのが怖かった。何よりも、人を殺すことが。 だから戦場から逃げ出してきた。騎士を見捨てて逃げられる自分も怖かった。 足を引きずり、恐怖から逃れようと、選んだ場所は、花の下。 「……王子様が、帰ってきた日に。……お前は、知ったんだ。王子様の、気持ちを」 真っ赤な命をこぼしながら、青年は、花の降る中、樹の幹にもたれた。 自分をずっと好きと言ってくれた、たった一人の子供は、少年になり、青年になった。 人を殺すのが怖かった、人を守るために、人を殺すことが怖かった。 だから戦争は嫌いだった。剣を握るのも嫌だった。 花の降る中で本を読んで、花の下で眠りたかった。 薄れていく、景色の中。 青年は、樹にもたれかかり、色の無い雫をこぼす。 花だったら、よかった。 花だったら。 花だったら、人を殺さなくていいから。 「お前は、ずっと、王子様に愛されて。お前は、外に干渉できる魔力を持った」 「そして、王子様を、その魔力で取り込んだんだ。 王子様が愛した、幸福だった、季節ごと。 王子様の願いを、かなえてあげたかった。王子様を、同じように愛したから」 だからここでは、いつまでも花が咲いている。 いつまでも空が青く、いつまでも静かで、いつまでも花が降っている。 この遺跡の魔力の主は、この花だ。青年が眠る、樹。 世界が幸福だったころ。 ひとりの人に愛されて、花が持つ以上の力を持った。 トレハは、一歩踏み出した。踏んだところにあった綿毛が、はじけて飛んでいく。 踏み出した足でゆっくり歩き、トレハは、樹の根元で眠る青年に、手を伸ばした。 遺跡の記憶の中で、血に汚れていた王子様。だけど目の前の青年は、ひとつの汚れも持っていない。 伸ばした手で、髪に触れる。花と同じ色の、細い髪に。子供をあやすように撫でると、指の間をすべって、元の場所に落ちていく。 これは、花の夢なのだろうか。昔の戦争で死んだ青年。生きているようにとても綺麗だけど、寝息のひとつもたてていない。 「そして時間が流れた。時間と共に、お前の魔力は増加した。 だけど増加したのは、魔力だけじゃない。お前の抱いた、恨みも」 セーティは、空間から読んだ記憶を語る。セーティの手の中には、花びらがあった。青年を祝福するために、いつまでも降り続ける花は、触れたところから、消えていく。 「お前は……恨んだんだ。……人を。 王子様に、人殺しをさせた、世界を」 人は世界を生んで、世界を壊していく。 青年に人殺しの術を教えたのは。無邪気な笑顔を奪ったのは、人だ。 その恨みが、魔物を生んだ。 生まれた魔物は、荒れ果てた世界を駆けて。 人を殺した。 「……わかるぜ? ……好きな人と、ずっと一緒にいたい気持ちは。好きな人に、幸福でいてほしい心は。 好きな人を、祝福したい気持ちは。願いをかなえたい、思いは」 トレハとセーティは、花を見上げた。 答えない、花。 花は、ずっと降っている。 青年の眠る、この場所に。 「だけど、もう、駄目だ」 きっぱりと、トレハが告げる。 この場所は、花が見る夢だ。目覚めなければいけない。 「王子様が好きだったのは、人を殺さなくていい、花だ」 花は、風に吹かれて揺れる。淡い色をした、綺麗な花。目が眩む程の美しい景色。むせかえるほどの花の香り。永遠を感じさせる静寂。 愛おしい、幸福の記憶。 「お前は、人を殺した」 瞬間。 幸福な景色が、幸せな夢が。わずかに揺らいだ、そんな気がした。 「お前は、人を殺した。恨みから、魔物を生んで、人を殺した」 つらそうな顔でうつむいたセーティの肩に、トレハは手をかけてやる。トレハの手からセーティの中に、トレハが見た記憶が流れ込んだ。 本当に、これは。恋だったのだ。 無邪気な笑顔が好きだった。 好きと言ってくれる、声が好きだった。 名前を呼んでくれる、瞳が好きだった。 同じ色、と喜ぶ笑顔が好きだった。 自分という存在で、こんなに笑ってくれる子供を、少年を、青年を。 いつまでも守ってあげたかった。 いつまでも傍にいて、いつまでも笑顔を絶やさないようにしてあげたかった。 かなわなかった。 涙を見てしまった。 守れなかった。 死なせてしまった。 笑顔を、なくしてしまった。 「お前は、王子様を守りたくて。王子様を取り込んだ。殺したんだ」 ざあ、と、風が吹く。 流れ込んでくる。これは、誰の想い? 幸福の記憶は、辿れば辿るほど悲しくなった。幸福が、本当に幸福だったから。 セーティは、肩におかれたトレハの手に触れて、痛む胸を押さえながら顔を上げた。 「……あれから、四百年も経つんだよ。 ……眠れ。眠らせてあげて。お前の、花の下で」 それしか残っていない。無邪気な笑顔が消えた、青年の亡き骸。 花降る季節、幸福な景色の中、生きているように綺麗なままだけど、それはもう二度と目覚めない。 戦いなんか、争いなんか。悲しいことなんか、無い方がいいんだ。 いつまでも、好きな人が、この幸せな夢の中で眠っていられれば、それでよかった。 「……思い出せ。……空気よ。……幸福の記憶を、思い出せ」 セーティは、杖を抱いて、透明な声で紡ぐ。 トレハが横で、それを聞いている。 流れ込んでくる。この場所に眠っていた、たくさんの記憶が。 花に目をかがやかせた子供。毎日が一日おきになり、一週間に一度になり、離れても。 好きという気持ちが、なくなることはなかった。 「……幸福の記憶を抱いて、眠れ。夢を破れ。永遠に、花の下で――」 最後の、一言。 青い空が、ひび割れる。 花は、答えない。 花は、花。 だから、知らない。 想像でしかない。 花の、本当の気持ちなんか。 ただ、本当に、あのころは幸せだったから。 いつまでも、花降る季節を、終わらせたくなかった。 「……解放(リリース)――」 ざあ、と、風が吹いた。 最後の花が降る。いつか、誰かが愛した、幸せな景色の中に。 「……」 「……」 やがて、風がやんで。 トレハとセーティが、周りを見てみると。 そこは、ただの遺跡だった。 灰色に濁った曇り空。ひび割れた床。廃墟の臭いと、蜘蛛の巣と、埃だらけの壁。 苔むした、やせ細った枯れ木が一本と、 風化してぼろぼろの、本らしいものが、五冊。 錆びついた剣と、それから。 「……だから、嫌いなんだ。……ふざけんな、こんな仕事」 「……でももう、これで、ここは終わりだ。……だから良いって、わけではないけど」 枯れ木の傍に、わずかな白い粉。 きっと昔は、花が好きな、人の骨組みのかたちをしていた。 「本当に、いつまでも、花の下で眠れたんだ。 ……おやすみ、ローズクォーツ」 「……占領……じゃ、ないんだ。……本当は……」 「……ああ?」 荒れ果てた大地を歩く途中、ぽつりと呟いたセーティの声を、トレハは聞き逃さなかった。 不機嫌を隠そうともせず、トレハはセーティの長い銀髪を引っ張る。 「痛っ!」 「何だよ、今さら蒸し返すなよ。……そういえば、俺も気になってたんだよな」 セーティの杖での報復を、今度はひらりとかわして、トレハは思い出す。 辿った記憶の中。四百年前なんて、人間のトレハは生まれてはいないのに、何故か遺跡の……花以外の場所の記憶の中に、知った顔があったのだ。 「何で、あの遺跡の記憶の中に、お前がいたのか。それと、関係があんのか?」 「……ああ。……あの国を攻めたのは、僕のいた国だったからな」 「……。……ふーん」 一瞬、言葉を無くしたように見えたトレハは、すぐに元の調子を取り戻した。横に並ぶセーティを、ちらっと見て。 銀色の長い髪から覗くセーティのとがった耳は、ティアフル族である証だ。 「……あの樹、とても珍しいものなんだ。 あの樹を贈った国は、滅んでしまっていたから。 ……それで、当時の族長が……、……あの国は、その珍しい樹を、研究に使っている、って」 うつむいたセーティは、トレハの方をけっして見ようとはしない。そんなことは別に珍しいことではなかったので、別段気にはしなかった。 剥き出しの地面の上を、二人は歩いて、歩き続ける。こんな依頼を寄越した街の長を、一発殴りに行くために。 「……でも、中庭は、あの時も開かなかったらしい。あの時から、きっと、もう……」 「ああ。……あれは、あの王子様を、守っていたってことだろうな」 ロマンチックだなー、と。 そう言ったトレハの声に、感情はまったく無かった。 遺跡解析者。 二人は、この仕事が、大嫌いだった。 墓荒らしみたいな真似も嫌いだし、蜘蛛も嫌いだし、埃っぽいところも嫌いだ。 だけど、何よりも、それ以上に。 悲しくなるから。 悲しい記憶を辿るのは、つらい。こめられた想いは、本当だから。 「だけど、」 ぽつり、とトレハは言う。その横顔を、セーティは見ている。 「あれで、少なくともあの花はもう、王子様を失った悲しみを、抱かなくていいってことだ。 ……それで、いいか」 「……トレハ……。」 不本意そうに言ったが、トレハは。 とても優しい瞳をしていた。 その瞳を見て、セーティは微笑む。 「……そうだな」 「ああ。……そういえば、セーティ。あの花、何て言うんだ」 「え? ああ……、」 幸福の記憶の中、空はとても青かった。 今の世界の空は、いつでも灰色に濁っている。雷鳴の轟く、荒れた大地。 「ミューズ・ソル・ヴィレーチェ。 花の故郷の言葉で、桜。 ……綺麗な色だっただろ」 いつか、世界は、戻ることができるだろうか。 ――青い空を、花の香りを、汚れの無い、幸福な記憶を思い出すことが。 《 終 》 |