遺跡解析者  

02 さかなの国
後編

 テラスの中に、老人と対峙して。トレハは槍を握ったまま、立ち尽くしていた。

「誰だよ、あんた。ずいぶんつらそうだな」
「……この別荘の、主だよ。
 ……お若いの、槍を下ろしてくれないかね」
「別荘の……主? ……、」

 蒼い双眸を薄め、トレハは怪訝そうに老人を睨む。

 城の、とは言わなかった。別荘の、とわざわざ言ったということは、例の貴族ということだろうか。
 雷で壊れた辺境の古城を買い取って、わざわざ別荘にしてやった、物好きな貴族。
 その後戦争に押され、別荘を放棄した、どこかの貴族……。

「……」

 怪訝そうに睨み続けても、老人はぴくりとも動かなかった。しわだらけの肌は褐色で、金色の目がぎょろぎょろと妖しく蠢いている。闇夜の中に紛れたら、魔物に見えるかもしれないな、などとどうでもいいことを思ったところで、

「……わかったよ。
 話をしようぜ、って言っといて、武器を持つってのは反則だよな」

 トレハは素直に槍を下ろした。円テーブルに立てかけて、苦笑する。
 老人は、ありがとうよ、と言って、ほんの少し右によろめいた。

 老人は、先程までトレハが座っていた椅子の反対側にある、もう一つの椅子に腰を下ろした。金色の瞳を、海に向けて。
 風に吹かれて、衣服の裾がぼろぼろと崩れる。トレハは立てかけた槍の傍に待機したまま、椅子に座ろうとはしなかった。まるで監視でもするような目つきで、じっと老人を見据えている。

「……それで。お若いの。お前さんは、何が聞きたいのかね」

 視線は海に向けたまま、老人はトレハに尋ねた。優しい声だった。優しいというより、どこにも感情が聞こえない、抑揚の無い声。
 トレハもまた感情の見えない顔で、言う。

「そうだな。昔話なんか、聞かせてくれるとありがたいけど」
「……昔話、か」
「ここ、自殺の名所なんだろ? そんな場所の持ち主の話は、聞いておきたいよな」

 自殺の名所、とトレハが口にした瞬間、老人の肩がわずかに揺らいだ。瞳が蠢いて、少しだけトレハに向けられた。彼はそれに気づいたが、動じない。
 トレハが動こうとしないのを見取って、老人は小さく溜息をつく。
 そして、しわがれた小さな声で、ぽつりと口にした。

「……自殺の名所……。何と不名誉なことか。この、美しい場所が……」

 老人の目は、景色を見ている。
 灰色空、その中にある雷光。金属のような色合いの海。寄せては返す波の音は、どんなふうにこの老人に聞こえているのだろうか。トレハの目には少なくとも、美しい場所には見えない。

「私が、娘と暮らしていた頃は……。そんな不名誉は想像もできなかった。
 空は青く、海は穏やかで、まるで宝石のようだった。毎日が、花のように美しかった」

 抑揚の無い声が、流れるように紡ぐ。人の記憶。
 トレハは冷たい瞳で、無表情で老人を見つめている。

「娘は海が好きでな。毎日私をテラスに引っ張り出して、飽くことも無く海を見ていた。
 そんな娘を見て、私も心が和んだものだ……。
 あの頃は、本当に……」

 あの頃は、本当に。
 幸せだった、と。

 それを聞いて、トレハは不機嫌そうに顔を歪ませた。
 それは、トレハが大嫌いな言い回しの一つだったからだ。

「……それなのに」

 ぎり、と老人は、膝の上で手を握る。腹の底から搾り出したような声だった。

「……それなのに、戦争がやってきたんだ。
 娘と二人、穏やかに暮らしていた私の元に、戦争がやってきた。
 私を……私を、殺しにくる……」
「……」

 悲しみ、憎しみ、恨み。いろいろなものが感じられる声。
 トレハは、老人の瞳がこちらに向いていないのを視界の端に捉えると、そっと右手を伸ばして、テラスの錆びた囲いを握り締めた。

 握り締めた手を包むように、淡い緋色の光が浮かぶ。淡い光は濃くなって、炎のように輝くが、老人はそれに気づかない。
 トレハは手から、別荘に残された記憶を辿る。老人の声を助けに借りて。


 遺跡と呼ばれる古い建物から、それの持つ記憶を辿ることのできるトレハ。
 空間の記憶を辿り、自らの魔法の力とすることのできるセーティ。


 二人の呼び名は、遺跡解析者(レリックアナライザー)、と言った。


「……」
「……追いつめられた……。リビングから、テラス……そうだ、このテラスだ」

 青い空。青い海。追いつめられた男と、幼い娘。
 たくさんの兵士の手に握られる、剣と槍、輝く風の魔法。

「追いつめられて……。追いつめられて、私は……」

 怖がる娘。怯える男。
 背中には、青い海がある。
 海岸線の別荘で起こった戦争の末路を、トレハは頭の中で見ている。

「……私は、娘を殺した。海に投げ捨てた」

 震えるような声だった。

「……私は、娘を殺した。海に投げ捨てた。
 でも、それは……あのまま剣に突き刺されるより、海に落ちた方が、助かる確率が高いと思ったから……!」
「……」

 悲痛な叫びは、一体いつのものなのだろう。記憶の中、目の前の老人は、まだ若い。
 そもそもこの別荘が放棄されたのは、もう二百年も前のことだ。
 それなのに。

「私はまだ覚えている。私が突き落とした、娘の姿を。
 娘の、泣き叫ぶような悲鳴を。恐怖と絶望に歪んだ、娘の顔を」

 トレハは、掴んでいた囲いから手を離した。緋色の光が消えていく。
 男は骨のように細い手で、自分の頭を抱え込んだ。

「覚えている。覚えている――だから私は……娘を探したくて……。
 ……謝りたくて、見守りたくて……!」

 トレハは聞いている。老人の声を。全く感情の浮かばない顔で。
 一体いつから老人は、この別荘に留まっているのか。
 寿命を超えて、どうやって。
 一体、何が、目的で?

「覚えている……私は。娘が落ちた日のことを。
 ……娘が好んで着ていた、赤紫色のドレスが、風に舞って海に消えたのを――」

* * * * * *

「……何……ですって?」
「……」

 赤紫色の小さな魚は、セーティの目の前で、うろたえるように呟いた。「お前は本当に、自分を魚だと思っているの?」という、セーティの言葉。
 背びれや尾びれがドレスのように、流れに乗せられひらひら踊る。海の中に残った部屋の中、魚の言葉を聞きながら、セーティはぽつりと言った。

「そのままの意味だ。お前は本当に、魚なのか?」
「魚よ。見てわからないの? 魚の姿をしているじゃない。
 私は魚。魚なの」
「……僕にはお前が、魚だとは思えないんだよ」

 静かな声は、海の中に広がり、消えていく。白い砂に沈んだ、半分だけの古城。
 宝石のようにきらきら光る、たくさんの魚が棲むさかなの国の玉座の間で、魚とセーティは対峙していた。空気の泡が、時折思い出したように、地上を求めて消えていく。

「……何を、言っているの?」

 魚は声を震わせる。腹の底から搾り出したような声だった。
 小さな黒い魚の瞳は、鋭くセーティを睨んだが、セーティは全く動じなかった。ほんの少し、悲しそうな顔をしただけで。

「何を言っているの。どう見ても魚じゃない!
 私のどこが魚じゃないというのよ! 言ってみなさいよ!」
「……そもそも、僕とあいつがここに来たのは、」

 魚が声を荒げたのは、無視した。セーティは辺りに視線をめぐらせる。たくさんの魚が泳いでいる。沈んでできた国の中を、永遠にまわり続けるように。

「ここが、自殺の名所と言われていたからだ。
 ……この近くで漁をしている人が、不思議そうに言っていた。『ここは、何人も跳び下りているはずなのに、死体が一つも上がってこないんだ』、って」

 灰色空、荒れた大地。自殺を止めることができないから、せめて弔ってやりたいのに。
 その漁師はそう言っていたよ、とセーティは言った。

「……それが、何よ」
「……この海の上には、半分が海に沈んでしまった古城があっただろう?」

 今では、壊れたところが修復されて別荘と呼ばれている、貴族の持ち物。
 沈んだ半分は海の中で、さかなの国になっている。

「……」
「覚えは、無いか?」
「……知ら、ない……。そんなもの、知らない……覚えなんか、無い……」

 セーティはやわらかく尋ねたが、魚の声は硬いままだった。ひらひらと舞う背びれや尾びれが、海の上からのぬるい光を、さらさらと反射する。
 灰色空から、太陽は覗かない。だから今の時代の人族は、太陽を見たことは一度も無い。

「人通りが少ない、静かなところだ。豪華な部屋があったよ」
「知らない。……知らない……」
「ぬいぐるみとドレスでいっぱいの、女の子の部屋があった」
「知らない。……知らない、そんなもの……っ。だって、だって、私は……っ」

 魚は身体を震わせながら、もうセーティを見ようとはしなかった。魚の心情を察したのか、セーティは長い銀髪を揺らせながら、苦笑した。

 祈るように瞳を閉じて、セーティは杖を握り締める。すぐに開いて、魚を見た。
 瞳を閉じても開いても、この世界は青く冷たいままだ。

「……結論を言う。
 ……お前は、魚じゃない。……忘れているだけだ」
「……嘘!」

 嘘、と魚は言ったけれど。声が、まだ震えている。

「違う、違うわ! 私は魚よ。魚なのよ! 魚じゃなければ、何なのよ!」
「……思い出せないのか? 自分が一体、誰なのか」

 セーティは握り締めた杖を、前に構えた。碧色の瞳を閉じる。
 取り巻く碧色の光の輪が、杖に嵌まった碧色の石が、もっと強い光を発した。

「お前が、覚えていなくても。この海は、覚えているみたいだよ。
 海の上から、人が落ちてくる。落ちてきた人が、さかなに変わる……」

 そして、魚は。
 さかなの国の、住人になる。

「……お前が、魚だというのなら。どうしてお前は、人の言葉を喋るんだ?」
「嘘……。……いいじゃない、喋る魚がいても!」
「……この世界で、言葉を喋るのは、人と、ティアフル族だけだよ。
 ずっとおかしいと思っていたんだ。
 お前は人の言葉を喋るのに、どうして魚の姿をしているんだろう、って」

 花は言葉を喋らない。
 魚も言葉を喋らない。
 喋るのは、人と、人によく似た種族だけ。

「……っ。……嘘、嘘……っ」

 セーティは、開いた瞳で魚を見た。そして、周囲の風景を。

「……嘘よ、違うわ、私は……っ」
「……お前は、人だ。魚じゃない。忘れているだけだ……、人なんだ」
「違う……。私は人じゃない! 私は、私を殺した人なんかじゃない!」
「……」

 まだ、空が青くかがやいていたころ。
 小さな娘が、空から落ちてきた。

「痛みなんか知らない。涙なんか知らない。私は、私は、人じゃない!
 思い出せない……、私を殺した人のことなんて、人じゃない、人じゃない、私は!」

 赤紫色のドレスを着ていた、小さな娘。
 今では、赤紫色のうろこが輝く、小さな魚。

「……人を魚に変える、なんて。
 ……そんなことができるのは、ひとつだけだ。トレハみたいには行かないけど……」

 部屋の床を軽く蹴り、セーティはふわりと壁に寄った。金の額縁がからっぽで引っ掛かったままの、白い壁に。
 そっと壁にふれて、透明な声で。ささやくように、語りかける。

「……貴方だろ? 半分だけの古城。話は聞いていたんだ、海の中の遺跡、って……」

 僕は、遺跡解析者だからな、と。
 大して嬉しくもなさそうに呟いたセーティの声は、海の流れに、とけて消えた。

* * * * * *

 灰色空の下で、波が寄っては返っていく。風が吹く、海岸線の別荘。
 辺境に建つ別荘の、錆びた鉄に囲われたテラスの中で、トレハは黙りこくった老人をじっと見つめていた。
 大切な娘を生かしたくて殺したと言った老人は、人とは思えないような手で小さな頭を抱えたまま、椅子の上にうずくまっている。

 どう考えても、もう二百年以上は生きている目の前の老人。人族の寿命は限られているのに、一体どうしてそんなことが?
 考えるトレハの結論は、たった一つに至った。右手で辿った、古城の記憶。

「……別に、俺は、あんたの娘のことに興味はねーよ」
「!」

 正直にそう言うと、老人は弾かれたように立ち上がって、トレハを見た。金色の瞳が蠢いて、まるで獣のように睨んでいる。

「興味が無い、だと! 私の娘のことを、よくも……!」
「馬鹿も休み休み言えよ。あんたが殺したくて殺したんだろうが」
「違う! あれは、私は……っ、娘を、生かそうと……っ」
「だから、別にそんなことに興味は無えんだよ! 俺が聞きたいのは、こっちだ!」

 トレハはおもむろに手を伸ばし、老人の手首を無遠慮に掴み上げた。ぎりぎりと締めつけると、爪が喰い込んだところの皮膚が、わずかに崩れて落ちていく。
 老人は顔をしかめて痛みを訴えたが、トレハはそんなことには構わず言った。

「何がどう、美しい場所で、穏やかに暮らしていたのか、言ってみろよ。
 この別荘は、古城だったころから――体の良い研究機関だったんだろ?」
「……!」

 研究機関。
 トレハがそう言った瞬間、老人は手首の痛みを一瞬忘れたかのように、大きな目を見開いた。

 その顔に驚愕が浮かんでいるのを見て、トレハは口元だけで笑う。

「……はっ。やっぱりな」
「な、なっ……。何故、そのようなことを……!」
「別荘の探検は、済ませてたんだよ。あんまり暇だったからな。
 地下室には拷問部屋があったし、実験器具も揃ってた。楽に記憶を辿れたから、あそこは修復された別荘じゃなくて、古城だ。
 それをわかってて、ここを買い取ったんだな……、当ててやろうか?」
「……っ」

 口元だけで笑っている。
 つまり。
 目も声も言葉も、老人の手首を締めつける手も、全く笑っていないということだ。

「あ、当てるだと……っ」
「研究機関の目的を、な。お前が、ここを買い取った理由まで」

 ぎりぎりと、細い手首を締めつける手に、折れそうなほどの力を込めて。

「狩って、買って、拷問の限りを尽くして。調べてたんだろ?
 あの、神秘的な生体を」


 羽根のような見た目をした、とがった耳。
 人族ではとても敵わない、類稀なる美しい容姿。
 本当は、男でも女でも無い身体。
 その身に宿した、圧倒的な魔法の力。
 そして、死の間際まで美しい、不老長寿の秘密。


 老人が、奥歯をがちがちと鳴らせても。
 トレハは、押し殺したような低い声で。


「ティアフル族の、心臓が―― ……不老長寿の妙薬になるってことをな!」


 きっぱりと、断言した。
 手に込めた力が行き過ぎて、老人の細い手首は、音をたてて折り砕かれた。

 叫ぶ老人。動じないトレハ。


 灰色空に太陽は無く、波が寄っては返っていく。

* * * * * *

 いつのまにか、そこに魚はいなかった。セーティはそのことに気づいていたが、今更何も言わなかった。とがった耳を澄ませて、海の声を聞いている。細い指で金の額縁に触れながら、セーティは壁に寄り添った。

「……先に言っておく。僕はあいつみたいに、貴方の記憶は辿れない。
 僕が辿るのは、貴方のつくった空間の記憶だから。……だから、心はわからない」

 ようやく辿り着いた、遺体の上がらない自殺の名所の真実。
 セーティはゆっくりと、子供に言い聞かせるように話す。

「僕達がここに来たのは、ここが自殺の名所なのに、遺体が一つも上がらなかったから。
 ようやく見つけた……、貴方だったんだ……」

 黒いローブが、長い銀髪が、流れに沿って揺らめいている。ここは海の中。本当の光が届かない、深い海の底の、白い砂の上。

「……貴方が、人を魚に変えていたんだな。あの別荘の……、いや、古城の片割れ。
 自分のように、海に落ちてきたことを嘆いて……。
 ……もっともここは自殺の名所だから、貴方みたいに、不本意に落ちてきたという人は、ほとんどいないだろうけど」

 本当ならば、この壁も柱も、金の額縁も、部屋も。海の中には無いはずだ。

「自分が、海の中で遺跡になったように。同じように、永遠に海の中に生かそうとした」

 辿った記憶。
 海が、覚えていた。空から落ちてきた娘を、青年を、大人を、いろいろな人を。沈んだ古城が、つぎつぎ魚に変えていく。
 人の姿を失くした人は、魚となって泳ぐうち、いつしか本当の自分を忘れていった。赤紫色のドレスの娘のように。

「……違うだろう?」

 碧色の瞳を閉じて、額をこつんと壁に当てて。優しい声で、歌うように続ける。

「……違うだろう? 貴方の役目は、地上で人を守ること。海に落ちた時点で、貴方はもう本当は、死んでしまっていたんだよ。
 貴方はさかなの国になれない。だって貴方は、古城以外のなにものでも無いのだから」

 それは、娘が魚になれなかったように。人の言葉を喋っていたように。
 人は魚になれない。古城はさかなの国になれない。
 人はいつまでも人であり、古城はいつまでも古城であるのだから。

「……あの娘も、魚達も、貴方も。
 ……みんな、自分の本当の姿を、忘れてしまっていたんだな」


 自分を忘れるというのは、ひどいことだ。
 自分の本当の姿を知っているのは、自分しかいない。
 自分を忘れれば、もう世界に、自分というものはいないのに。


「……思い出せ、海よ」


 セーティは杖を抱きしめて、そして瞳は閉じたまま。透明な声で呟いた。
 青い世界。沈んだ古城の片割れ。魚になったと思い込んだ、なれなかった人達。


「理(ことわり)よ、この手に宿れ。海の理を思い出せ。
 嘘の無い青の世界の中で、本当の光を思い出せ。眠れ、永久に、記憶の中で……」


 大切なことを忘れていた。
 流れに揺られて、この青い世界の中。
 思い出すのは苦しいけれど、それがいちばん大切なこと。



「――解放(リリース)



 最後の一言。
 杖の先、碧色の石が、強く輝いて。





 海の中、青い世界はいつまでも変わらなかった。
 白い砂に古城が沈み、時折思い出したように、空気の泡が生まれて消えていく。

「……だって、人が造った建物なんかが、沈んでしまったら。
 ……魚に合わないものが溶け出して、魚は棲めないはずだからな」

 だけどもうそこに、宝石のようにきらめいていた魚はひとつもいなかった。
 その代わりのように、ところどころに。
 服の切れ端や、装飾品、まだ新しい人の遺体が、音も無く静かに沈んでいた。

「……帰ろう。……あいつは暇が大嫌いだからな、早く帰らないと愚痴を言われる」

 ぽつり、と静かにそう言って。
 セーティは魚のいない海の底から、光に向かって泳ぎだす。

* * * * * *

「う、ぐぅ……っ」
「あんたのその姿はきっと、ティアフル族の心臓を喰らったんだろ。
 不老にはなれなかったみたいだけど、長寿だけは得られたってわけだ。良かったな。きつそうだけど」

 俺だったら死んでも御免だと、折られた手首の痛みに呻いている老人に、トレハは吐き捨てた。もう、口元も笑っていなかった。無表情のまま、蒼い双眸が、ただ老人を睨みつけている。人を殺せそうな鋭さで。
 顔をしかめながら、老人もトレハを睨む。痛みに喘ぐ、細い肩。

「……何故、だ。何故、私を……っ」
「くだらねえ欲望で、他人を巻き込むやつが嫌いなんだよ。それだけだ」
「……くだらない、だと!? 私は、私は、海に落ちた娘を見守りたくて――」
「その言い訳が、くだらないって言ってんだよ!」

 トレハは声を荒げた。声から、口調から感じられるのは、隠されることの無い純粋な怒り。老人は思わず肩を竦めたが、すぐにまたトレハを睨みつけた。

「言い訳、だと……っ」
「言い訳だろ。あんた、娘を殺したって言ってたじゃねーか。つまり、娘は死んだと思ってるんだろ?
 なのに、何が見守る、だ。大体見守るなら、どうして海に下りない?」

 娘は死んだ。もう、地上に場所は無い。間違いなくここには戻ってこない。
 なのに老人は、ずっとここにいる。陰に身を隠して、待っている。

「娘を探したいなら、ここから跳び下りればいい。娘を大切だと思っていたんなら、娘を守れば良かっただろ。
 あんたのことなんか知らないけどな。あんたは、怖かったんだ」
「……」

 トレハは、堰を切ったように喋り出す。許せない、この、目の前の老人が。
 怒りだけを言葉に乗せて、トレハは老人と対峙する。

「あんたは、死ぬのが怖かったんだ。娘を殺しておきながら、自分はティアフル族の心臓を喰らった。
 他人の命で生きようとした。
 その上、殺したことに言い訳まで作った」
「……こ、わい……」

 青い空、あの日の記憶。剣が、槍が、風の魔法が、男と娘を追い詰めた。
 風の魔法を使うのは、風の国の民。
 風の国の民は、ティアフル族の保護活動に精力を傾けていることで知られていた。

「……怖い。……私は、死ぬのが、怖い……?」

 怖かった。あの剣で斬られたら、槍で突かれたら、魔法で刻まれたら。


 死んでしまう。


「……怖い。……私は、し、死ぬのが、こ、こ、怖い……!」
「……」

 老人は、がくがくと膝を震わせた。膝だけでは無い、身体が揺れている。何かに怯えているのだと、一目でわかった。その何かが死ぬことであることも、すぐにわかった。

「怖い……。ティアフル族の、し、心臓は……。長寿をもたらすが、ぜ、絶対では無い。いつしか魔法は解ける。長寿も消える。
 切れたら取り込まなければ。新しい命を……」

 死ぬのは怖い。死んだらどうなるかわからない。
 だけど死に怯えて、自分が何の為に生きているのか忘れるのは、もっと怖いと思った。

「何故……何故だ……隠していたはずなのに……」

 老人は、目を剥いてトレハを見た。
 トレハは落ち着いて、まったく動じない。

「何故、何故、心臓の秘密がわかった! ……何故、私の研究のことが!」
「……くっだらねー質問だな。簡単だろ、そんなの」

 質問にもなっていない。
 そんな顔をしている。

「……俺が、遺跡解析者だからだよ」

 だから、記憶を辿ることができる。幸福の記憶も、悲痛の記憶だって。
 嬉しくもなさそうにトレハが呟くと、老人は言葉を失った。



「……先程まで、ここにいたな。ティアフル族が。お前の隣にいた」
「……」

 風の音。しばらくの間言葉を失っていた老人が、ふいにぽつりと呟いた。トレハは、かすれた声を聞き逃さない。
 無表情をほんの少し硬くして、次の言葉を待つ。

「……いた。確かに、いた。ティアフル族が、いた。
 どこだ。どこにいる」
「……。
 ……やっぱりな。……狙いは、セーティか」

 不老長寿の妙薬。
 ティアフル族は遥か昔、その美しさ、稀少価値が災いして、人族から何度も狩りに遭っていた。英雄のはたらきで狩りは終わったが、英雄が消えたら戦争が始まった。
 本来は戦うことが嫌いなはずのティアフル族は、狩りに遭った恨みから、戦争に参加した。そして次々と消えていった。

「ずいぶん、珍しくなったみたいだからな。
 戦争が終わって時代が荒れたら、差別と狩りは無くなったけど、その稀少価値は変わらない」

 あいつも大変だ、と。トレハはまったく他人事で呟く。円テーブルを挟んだ反対側で、老人は呻くように続けている。

「どこだ。どこにいる。寄越せ」
「……」

「あの、銀髪のティアフル族を寄越せ。銀は浄化の証だ。銀髪のティアフル族は、もっと稀少だ。
 銀の浄化を持つティアフル族は、より強い力を持っている……」

 そう言って、トレハを睨みつけるその瞳は、ほとんど獣そのものだった。
 ぶつぶつとまるで独り言のように聞こえるその内容は、知らずにトレハの逆鱗に触れた。

「……ふざけんな」
「寄越せ。……不老長寿の力を、銀の浄化を……永遠の命を、私に寄越せ!」
「……ふざけんな!」

 トレハはその瞬間、立てかけてあった槍を引っ掴んだ。円テーブルに手をついて、一瞬でひらりと跳び越える。
 派手な音をたてて、倒れる円テーブル。トレハに蹴り飛ばされた老人が、テラスの囲いにぶつかって、床に落ちた。


「……」
「……」


 そしてトレハは、老人の首に、躊躇無く槍を突きつけた。荒業だった。
 先が首に触れ、血管を傷つける。まだ赤い、命の色。

「……ふざけるなよ。ふざけんな。……誰が、てめえなんかに寄越すかよ。
 覚えておけ、俺はな。セーティ以外の俺に指図する奴、子供を殺す親。俺のものを奪おうとする奴は、大嫌いなんだ」
「……寄越せ……っ。……私は、私は!」

 トレハの足に押さえつけられながら、老人は抵抗し、叫ぶ。
 だが抵抗はほとんどかたちを成さず、トレハは槍を握る腕に力を込めた。


「私は……っ。……死にたくない――……!」



 まったく躊躇が無かった。冷酷と言える動作だった。
 トレハの槍は、老人の首を、真っ直ぐに貫いた。

 死にたくない、死にたくないと。いつまでもいつまでも繰り返して。

「……バーカ。……相手見て喧嘩売れよ。
 ……寄越すかよ、あいつを、誰にも」


 トレハは首から槍を引き抜いた。溢れ、テラスに溜まっていく、老人の血。
 真っ赤な命は人族と同じように見えたが、ほとんど骨と皮だけの、他人の命を喰らって生き長らえていた残骸は、人族とは言いたくなかった。
 一種の魔物だろう。ほとんど同じかたちの生き物を、一体どれだけ殺していたのか。拷問部屋にも実験室にも、たくさんの血の跡が残っていた。


「……俺も、本当は、えらそうな口は叩けないけど」


 風に消えそうなほどの小さな声で、トレハは言う。
 血溜りを避けながら。



「……あいつを狙う奴には、容赦しない。
 ……あいつは俺のものだって、あの時、俺が決めたんだからな」



 トレハの声が、掻き消えたのと同時に。
 槍に突かれたところから、老人の死骸が崩れ、消えていった。



* * * * * *



「……っ。は……っ」
「! セーティ!」

 鉄製の囲いに結んであった緑色の綱がきしむ音で、トレハはほとんど条件反射でそちらを向いた。見れば全身びっしょりと濡れたセーティが、絶え絶えの息でひょっこりと顔を覗かせている。
 銀色の髪にしずくが落ち、白い肌を伝う様は純粋に綺麗だったが、残念ながらトレハには、そういう美的感覚はまったくわからなかった。

「ったく、遅かったじゃねーか。暇だったんだぞ、何やってたんだよ」
「悪かったな……。……いいだろ、ちゃんと、仕事はしてきたんだから」

 杖を落とさないように綱を上ってくるのはずいぶんと重労働だったのだろう、セーティはテラスに乗り上がると、白い椅子にぐったりともたれて、そこを動こうとしなかった。
 それは先程までトレハが使っていた椅子だったので、トレハはなんとなく悔しかったが、セーティは本当に疲れているようだったので、髪を引っ張るだけでやめておいた。

「痛っ!」
「それで。何があったんだよ。遺跡、見つかったのか?」
「ああ……、」

 髪を引っ張られた腹いせに、セーティは杖でトレハの頭を殴る。
 きちんと報復を終了させてから、セーティは碧色の瞳を海に向けた。鉛のように重たい色合いの海。波が何度も寄せては返す、秘密の場所。

「……この古城の半分が、遺跡になって、人を魚に変えていたんだ」
「……魚?」
「詳しい話は、後で良いか? ……ちょっと、もう、疲れて……」

 緩やかな角度の背もたれに身体を預けて、セーティは椅子に横向きに寝転んだ。杖だけはしっかりと、両腕に抱きしめて。
 服が濡れたままでは色々ときついだろうと、トレハはセーティの傍らに立ち、とりあえずローブだけを脱がせてやった。細い首筋に張り付いている長い髪を、手でそっとどけてやる。

「っ! な、何だ?」
「え? ああいや、悪ィ、何でもない。待ってろよ、今、着替え持ってきてやるから」

 手の感触に驚いたのか、セーティは一瞬だけ身体を起こし、目をまるくしてトレハを見たが、トレハがひらひらと手を振ってそんな台詞を残し、別荘の中へと続く窓ガラスを開けたので、それ以上言及することは無かった。
 再び身体を横たえたセーティは、薄く開いた瞳で、ぼんやりとトレハを見る。

 その時、ふと。

「……ん……?」

 セーティは、気づいた。

 何気なく視界に入ったテラスの床に、血溜りができていることに。

「……トレハ?」
「ん? 何だよ、いいから待ってろよ」
「いや、服のことはありがたいんだけど……。そうじゃなくて、この血……」

 純粋に疑問の声を上げたセーティの不思議そうな顔を、トレハは見つめた。
 その時トレハが何を思っていたのか。
 セーティに、わかるはずもないけれど。

「何か、あったのか?」
「……いや、別に」

 こくん、と首を傾げたセーティに、トレハは笑いかけた。
 青年らしい勝気と、頼もしさを含んだ顔で。

「魔物が襲ってきやがってさ。暇つぶしに、相手してたんだよ」
「……そうか。……なら、いい」

 納得したらしい、セーティは小さく頷くと、再びその瞳を閉じた。
 水に濡れた銀色の髪は、ローブの下に着ているワンピースに、よく映える。


 灰色空の下に、海があった。
 波の音。潮の匂い。



 何か、大切なことを忘れていた。
 大切なことを忘れたけれど、今は、ただ、荒れ果てた世界の中。
 ぼんやりと差し込む光を、本当の光と思い込むだけ。



《 終 》


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