森の出口から少し離れたところで、三人はうずくまり、息を整えていた。 その最中、背中に熱を感じて。恐る恐る立ち上がり、振り返る。 そこにあったのは、動物達と妖精族が棲む、豊かで静かな、森。 それを包む込む、血のように赤い、大きな大きな、赤――。 「……森、……が……、」 「……」 目の前で、木々が音をたてて燃えている。 それは、ザルツとセルシアが今まで聞いたことのない、耳をつんざく轟音だった。いつの間にかすっかり日は暮れていたというのに、夕焼け空のように、景色は赤い。 赤い森から飛び出してくる鳥たち。羽に赤が燃え移ったものもいる。赤い森から逃げ出してくる動物達も、皆必死に見えた。 セルシアのサファイア色の瞳に、森を包み込む赤が、鮮明に映る。立っていられなくなって、セルシアがその場に座り込んだ。それを見たザルツが慌ててセルシアに駆け寄るが、その様子は見えてはいない。 「セルシアさま!」 「……森が……!」 震えた声で、セルシアが呟いても、どうにもならない。 エルフの少年は、真横で起こっているそのことに気づいていないかのように、ずっと森を見つめていた。 薄碧色の髪、薄青色の瞳、薄い色の肌。身体全体が、夕陽に照らされたときのように、赤い光を帯びている。 セルシアの肩を、ザルツは支えている。 「……おひめさま、剣士さん。……もっと後ろに、下がった方がいいよ」 ふいに、エルフの少年が、口を開いた。ゆっくりと、言葉を紡ぐ。 「……あ……、」 「……火が移ったら大変だよ。そんな高そうな服、燃えたらもったいないよ」 炎の勢いとは裏腹に、淡々と言ったエルフの少年。 ザルツは顔を上げ、横顔を見た。長い薄碧色の髪が、炎とそれによる熱風とで、ふわりと後ろになびいていた。 「……僕たちを、森の外に追い出して、一気に捕まえようとしたんだろうな。 ……でも、そんなの、無駄さ」 「……え……?」 その横顔は、まったく変わっていないように見えた。だが明らかに、口調は険しい。 「……僕たちエルフは、極端に炎が苦手だ。炎を見れば、その場で立ち竦んで、何もできなくなる……。 ……だからもう、みんな燃えたはずだよ。残ったのは、僕だけ。……僕、ひとりだけ」 ザルツは、何も言わず、何も言えずにその横顔を見る。 エルフの少年は、顔を赤い森に向けたまま、続けた。 「……僕はこれから行くところがあるけれど、君たちは来ちゃだめだよ。 だから、このまま。丘を越えて、……君たちの住んでいるところまで」 顔を、下に向けた。求める水の色より薄い色をした、瞳を閉じる。 そして、開く。 先程よりも、強く、強く。 「……まだ、名前を、教えていなかったね」 「……」 一瞬だけ振り向いたその顔は、 少しだけ悲しそうに、笑って。 「……僕は、リビア。綺麗な、花の名前」 「……リビア……?」 「……じゃあね」 「え? ……え、あのっ……!? ちょっ……」 ザルツの声に応えず、リビアは走り出した。かろうじて炎が途切れている、森の道に入る。 炎の中に。 「……!? おい、待てよ……!!」 リビアを追いかけようと一歩踏み出して、一瞬立ち止まる。セルシアを、ここに放っておくわけにはいかない。 若草色の瞳を、リビアの背中と、うずくまったセルシアと、交互に向けて。 そして、ぎゅっと手を握った。 炎を映す瞳で、セルシアを真っ直ぐに見る。 「セルシアさま。……ここに、いてください。 ……俺は、行きます」 セルシアは返事をしなかった。 だが、迷っている時間は無い。 背負っていた剣を腰の左側に付け替えて、ザルツは、森の中へ入っていった。 炎の中に。 ザルツはまだたったの七歳で、リビアが何処に行こうとしているのかなんて、わからなかった。 でも、本能的に、気づいていたのかもしれない。追いかけなければならないと。止めなければならないと。 セルシアもリビアも、彼と同じ、まだたったの七歳で、ありきたりな言葉しか見つからなくて、悔しいとか、悲しいとか、恐いとか、そういった単純な感情を、抑えることなんてできなかった。 炎の中を走るリビアを、ザルツが炎の中、追う。 うずくまったままのセルシアが、震えながら顔を上げた。 その瞳に、その色と相反する赤が映った。 自分のまわりが、全て、音をたてて燃えている。 それは、流れる血より鮮やかな、愛した夕焼けの色。本来ならば立っていられないはずの場所を、気力だけで立ち、歩く。目指すところは、先程の場所。全ての元凶の、赤髪の青年。 ――殺すべき、相手。 「……ん? ……何だ、お前。逃げねーのか? まぁ、逃げても俺達に捕まるんだがな」 目の前で、赤髪の青年が笑っている。 そのまわりには、いつの間に起きたのか、小さな剣士が倒した、黒髪の男と、女性も。 「今頃は、森中のエルフが森の外にいるはず――」 「……いないよ」 短く、ぴしゃりと言い放つ。青年達が、怪訝そうに顔を歪めた。 「きっと、もうみんな死んでる。……エルフは、炎を見ると、動くことができなくなるから。恐くて」 「……は……ぁ? ……何言ってんだ、お前は動いてんじゃねぇか」 黒髪の男が、呆れたように言う。 リビアはそれを、黙って聞いていた。 「……それはきっと、やりたいことがあるからじゃないかな」 ぽつりと、聞こえるか聞こえないか、くらいの声で言う。その言葉はすぐ炎にかき消され、すぐ近くで、木が一本、燃えながら倒れた。 「……エルフはね、炎の精霊とは、あんまり仲良くないんだ。その代わり、森の精霊とは、とても仲が良いけど。 どういうことか、わかる?」 「……?」 リビアが、赤く照らされたその顔をゆっくりと上げる。 その顔に、笑顔が浮かんでいるのに、青年達は、ぞっとした。背筋が凍るような思い。 リビアが、ゆっくりと両腕を肩の高さまで上げる。 「……僕らはね、人間と違って、何も無くても、魔法が使えるんだ。 呪文なんか無くても、 ――そんな、宝石(いし)なんか無くても」 「……な、……ん、ですって……?」 リビアが、腕を前に、ふ、と動かした瞬間。 まわりの木々の枝が、炎を包んだまま、鋭く尖って、青年達を襲った。 「!? う、うわああぁぁぁっっ!」 「きゃああああぁ! え、枝がっ、炎が――!」 「……」 枝の刺さったところから、血が吹き出る。皮膚に食い込む枝が、大きな火傷を作った。 リビアはそれを、無表情のまま、じっと見つめる。 「たっ……たっ、たた助け……」 「……。……僕の仲間も、同じ思いをしたんだ。みんな」 「……っ! ぎゃぁあっ……」 炎の勢いは止まらない。青年達が、同じように赤く染まっていく。 リビアはかざした手を、左下から右上へ、はらった。枝が蠢く。目の前で苦しみ、のたうちまわる三人の人間を見た。 攻撃を止めてやろうか、このまま殺してしまおうか。 ――そんなことを、考える。 「……」 にっこり笑って、後者を選ぶことにした。 それはとても子供らしい、無邪気な微笑み。 両腕を広げた。尖った枝が、その向きを、青年達の喉へと変えた。 「ひっ……ああぁ、熱っ……」 「助けて! 許してええぇ!」 「……死んじゃえ。」 見知ったものに挨拶をするかのように、軽く言って。スッと、青年達を指差す。 枝が、獣のような速さで、青年達の喉へと向かった。 ――――その時。 「……だあぁっっ!」 「っ!?」 寸でのところで、枝の先が、地面へと向かった。 それと同時に、自分より若干低い、少年の声。斬られた枝が地面に落ちて、炎に覆われた。 しばらく呆然とする。 ……そして、枝の大元の、木を見た。 そこにいたのは――、 顔や体のあちこちを焦がした、短い砂色の髪に、炎の映りこんだ、若草色の瞳。 銀色の刃にもやはり、炎が映り込んでいる。 「……剣士、……さん……?」 「……リビア……!」 息を荒げて、ザルツが顔を上げた。悲しそうな、怒っているような、顔だった。 リビアはそれを見て、ただ呆然とする。 ザルツは剣を左腰の鞘にしまうと、リビアの肩を強く掴んだ。 「何やってるんだ! ……どうして、こんな……!」 「……だって……、」 「……だってじゃ、ないよ……! 何でこんなことしてんだよ!」 「……だって、……この人たちが……僕の……、仲間を」 「……リビアが言ったんだろっ……、」 「……え……?」 炎の中をずっと走ってきたダメージが、思いのほか強い。 呼吸が荒く、言葉が途切れ途切れになる。 「……リビアがやってんのは、ただの『やっちゃだめ』なことだ!」 「……」 「リビアが言ったんだ……、狼が人を殺すのは、生きるためだって……」 「……」 まどろっこしくなって、ザルツがリビアの胸倉を掴みにかかる。 リビアが、困惑した表情を見せた。 「だから……、こんな、……意味の無いこと……」 そこまで、言って。 「……う……、」 「……!? え、け、剣士さん、剣士さん!?」 ザルツが目を伏せ、リビアに倒れ込んだ。細い腕では支えきれず、ザルツの体が地面に崩れ落ちる。 まだ言いたいことがあるのに、というザルツの意志も叶わず、 ザルツの意識は、途切れた。 顔にかかる炎の熱さ、耳元で自分を必死に呼ぶ声。 脳裏に、倒れている三人の姿と、森の外に放ってきてしまった、セルシアの姿が映った。 「……だからあれ程、森に入るなと言っただろう!」 「っ!」 ここは、王家の城の中。 セルシアの部屋のベッドで寝ているザルツが、父親の怒鳴り声で肩をすくめた。それを、セルシアとリビアが、並んで座って見ている。部屋の外にまで響いたであろう怒鳴り声に、やはり目を強く瞑った。 「で、でも……」 「でもも何も無い! 森は燃えるし、お前は傷だらけでいるし! 姫様が騎士団を呼んでくるのが少し遅かったら、どうなったと思っているんだ!?」 「ご、ごめんなさっ……」 「その上、姫様にまで危険な目に遭わせて……!」 「……」 「あ、あの、ジフェラ。ザルツは悪くないの。だって、わたしがわがまま言ったんだもの。そんなに怒らないで」 セルシアが、ジフェラ――ザルツの父親、兼騎士団長、にお願いする。 だがザルツの父親は、まだ不満らしい、それでも若干声を落として、ザルツに続けた。 「そこを駄目だと言えるのが、立派な騎士だろう! 誰かを危険な目に遭わせないようにするのが、騎士団の本来の目的だ! それをお前は――」 「まぁまぁ、ジフェラ。……そんなに怒鳴らずに」 「……え?」 ふと、柔らかな声が滑りこんできた。重い扉を、開ける音。部屋にいた全員が、すぐにそちらを向く。 ……そこにいたのは、 「あ、……お父さま……」 「……! こ、国王様! 申し訳ございません、私の息子が……」 セルシアの父。 この国の王、だった。 ザルツの父親が、ザルツの頭をぐい、と下げ、自分も頭を下げる。それを国王は、まぁまぁ、となだめた。歩きながら、セルシアとリビアの方へ向かう。 「怪我はないかね、セルシア? ……エルフの子――リビアも、腕の怪我は」 「あ……大丈夫です。何ともないです」 「わたしも平気。……それより、ザルツの方が」 「うむ」 今度は、ザルツの寝ているベッドへと向かう。ザルツの父親が、一歩退いた。 ザルツは遠慮がちに、国王を見上げる。 「まだ傷は痛むか? ザルツ」 「あ……、……え、と。……まだ、ちょっとだけ……」 顔の火傷にガーゼの上から触れながら、ザルツが言った。 砂色の髪をぽん、ぽんと撫でて、国王が微笑む。 「今回は、セルシアの我侭でこうなった。それは、セルシアが悪い。 ……だが、ザルツがそれを止められなかったのも事実。 今回のこと、誰にも非は無い。それで納得してくれるかね、ジフェラ?」 「……はっ……、……国王様が、そう仰るのなら」 「そうか。……ザルツも」 「え?」 国王が再び、ザルツを向いた。不思議そうな顔で見つめる。 「君の父親が君を怒鳴ったのも、君が心配だったからだ。 君と、ハンター達を抱えて炎の中から飛び出してきた後、ジフェラは、君の名前しか呼ばなかったからな。 ……だから、父親を恨むでないぞ」 「……は、……はい」 間の抜けた表情で返事を返す。 ちら、と父親の方を見ると、父親は、照れたように顔を背けていた。その様子に、先ほどまで怒鳴られていたことなど忘れ、声を押し殺して笑う。父親に、軽く頭を小突かれた。 「……そういえば、あのハンター……」 「ああ。……怪我の治療の為、医者にかかっておるよ。まずは、それからだ」 国王がゆっくりと、リビアの方を向いた。目があった瞬間、リビアの体が強張る。リビアが下を向くと、薄碧色の長い髪が、顔の横に落ちた。 「……あの、……ご、ごめんなさい……」 「……? ……何がだね?」 おずおずと顔を上げる。薄い青色の瞳に、映る。 「だって、……エルフは人間の支配化に置かれないかわりに、人間を傷つけちゃいけないって、……父様が。 だけど、僕は、……」 「……」 そこまで言うと、リビアは何も言わなくなった。ザルツもセルシアも、リビアを見つめる。 右肩の傷が痛んで、ザルツは左手でそっと押さえた。 「……リビア。……これから、行くところは?」 「……は?」 ふと、国王が言った。固い靴の底と床がぶつかり、コツン、と音がする。リビアの隣、セルシアの頭をふわりと撫でると、リビアを向いた。 「……あ……えー……と、いえ。……だって、エルフ、……だし」 途切れ途切れに呟きながら、ちらっと国王を伺った。まだ若さの残っている、褐色の大きな手。 その手に撫でられているセルシアは、嬉しそうな顔をしていた。 「……あの森にいたエルフが全滅したのは、……君も知っているな?」 「……はい」 「……もし君が、人間を手にかけたことに少しでも非を感じているのなら、」 セルシアと目を合わせ、優しく笑う。 「……この城に住み、セルシアの遊び相手になってやってくれんかね?」 その言葉を聞いて。 リビアを筆頭に、その場にいた、国王とセルシアを除く全員が、目を点にした。 「……へ?」 その感情を最初に表に出したのは、やはりリビアだった。 どうやら、処分される覚悟だったらしく。 「セルシアが言ってな、同い年の友達が、もう一人ほしい、と。 ……行く宛てがないのなら、ここにいてくれないか?」 「……そ、……そんな、……でも」 「ね、リビア」 誰がどう見ても慌てているリビアに、セルシアが手を組んで、おねがい、と言わんばかりに見つめる。 返答に困り、リビアがちら、とザルツを伺った。どう返していいかわからず、ザルツも困り顔をした。 「エルフは束縛を嫌う種族。……セルシアの遊び相手に束縛するのだから、これは立派な罰だ。 それでいいかね?」 「……う、」 ザルツに向けていた目を国王に向け、そして目の前のセルシアへと向ける。 その罰にまだ不安そうな顔をしていたが、目の前で食い下がっているセルシアには敵わなかった。 ふぅ、と溜息をついて、苦笑混じりに言う。 「……よろしく、……お願い、しま……す……」 「ほんと!? ……よかった! よろしくね、リビア!」 国王とザルツの父親が、顔を見合わせ、満足そうに頷く。 セルシアはリビアの手をとって、ぴょんぴょんと跳ねていた。 ザルツとセルシア、そしてリビア。 三人みんな、同い年の。 嬉しそうに笑うセルシアを見て、胸の奥が少しだけ痛んだ気がした。 皆が笑っている中、ザルツだけ、複雑そうに微笑む。 文芸部誌「游」58号掲載(加筆修正済) |