この国の王都は、水に守られた小さな島だ。 よって王都へ行くには、まず港町へ行かなければならないのだが、一晩歩いて一気に行けるような、そんな距離では無い。 ずっと昔の人々が、それを不便に思ったのか、それとも旅人を気遣ったのかどうかは知らないが、港町から少し離れた場所には、一つだけ、中継点として利用されている、町があった。 「……うわー。……すごいな、これで『街』じゃなくて『町』なのか……。はー……。」 宿町として昔から栄えてきたこの場所に、イルが到着したのは、村から四時間程歩いたころ、空がすっかり夜色に染まったころだった。 水に溶かした藍を濃くしたような空に、白銀色の星がまばらに光る夜。村から見るそれとは少し違うなと、心のかたすみで思う。 家の窓と窓との間に紐が渡り、灯りが括りつけられているお陰で、町は夜になっても、未だ明るかった。 球をかたどった布の中に、魔法の光が浮かぶ灯りを、物珍しそうに見上げながら、イルはとりあえず宿屋を探そうと、町中を歩いていた。 赤い屋根の二階建て。特徴がわかっているのだから、きっとすぐに見つかるだろう。 持ち前ののん気さから来る余裕で、イルは目的の宿屋を探しながら、町の見物も、ついでに行っていた。とはいえ既に時刻は夜であるために、開いている店などそうありはしなかったが。 本日最後の値引きをしているパン屋、店仕舞いを始めている武器屋。カードを手にした妖しげな占い師に、夜の旋律を奏で、歌う美しい吟遊詩人。 見るもののほとんどが、生まれ育ち、少し前に出てきた村には無かったものだ。 言われなければ自分は、ここを街だと勘違いしたかもしれないな、と思いながら、イルは肉屋で適当な干し肉を買った。 「……まあ、食事が出るかもしれないけど、一応な」 食いっぱぐれるのだけは、ごめんだ。育ち盛りの青年は、食事量に関して妥協しない。 こっそりとそう呟いたのとほぼ同時に、イルは肉屋の主人に、声をかけられた。 「はいよ、兄さん。こっちはお釣りだ。ちょっとまけといたからな」 「あ……。どうも」 屈託無く笑う主人から渡された紙袋と釣り銭を、イルは左肩に背負っていた皮袋に、適当に投げ込む。何故か低姿勢で頭を下げるイルに、肉屋の主人は、更に話しかけた。 「兄さん、妙にそわそわしてるけど、この町は初めてかい?」 「え? ああ、まあ。っていうか、村から出るのが初めてで」 「その歳で、か? ははっ、随分とのんびりしてるんだな」 男だったら、でかい夢持って、街……王都のことだ……に出ないとな! そう言って豪快に笑う主人に、ちょっぴり情けない思いをしながら、イルは苦笑した。おおらかな人なんだなと感じながら、イルはどうせなら、と、思いついたことを訊いてみる。 「親父さん。この町、昼間もこんなににぎやかなんですか?」 「ああ、そうだよ。昼間の方がもっとにぎやかさ。うちの品揃えも良いしな――、 ……と……、」 楽しげに、自分の住む町のことを話していた主人は、ふと何か思い立ったらしい、今までの表情から一変、少し難しい顔をした。 何事だろう、と思ったのも束の間。 主人は自分の唇に、そっと人差し指をあてると、声をひそめて、ぽつり、と言った。 「……兄さん、この町にしばらく滞在するのかい?」 「え…。……いいえ。明日……か、明後日には、出発するつもりですけど」 「……そうかい。それならいいんだ」 イルの返事を聞き、主人はほっと胸を撫で下ろす。 その様子に、イルはほんの少し首を傾げながら、この町に何かあるんですかと尋ねた。すると主人は、 「いや、実はな。この町に、『水晶』が来る、って、お告げがあって……」 「……え?」 心底困ったような顔で、そう、言った。『水晶』と、やけに神妙に告げられた言葉は。 「まあ、会うことも無いだろうが、一応気をつけなよ――それじゃ、毎度!」 透明で硬質な鉱物の名前ではなくて、紛れもなく、人の名前だ。 …正確には、呼び名。 この世界は、水に例えるのが相応しい、と。 そんな、言い伝えだった。 純粋すぎれば周囲を傷つけ、淀みすぎれば戻れなくなる。 ようするに、世界とは、純粋すぎず、淀みすぎない、あいまいな場所になければならないという話だった。 そして現状はどうなのかといえば、そのあいまいな場所を、ぎりぎりのところで保っている。 確かめた人がいるわけではないので、これもやはり、ただの言い伝えに過ぎないのだが。 しかし、水というものは、放っておけば淀むが、淀めば元には戻らない。 世界が純粋でないのなら、世界はどうやって、そんなあいまいな場所を保っているのか。 そんな疑問に対する答えは、簡潔だった。 「誰かが、たった一人で、世界の純粋を、守っている」……。 言い伝えによると、この広い世界のどこかには、世界の純粋をかためたような、そんな場所があるのだそうだ。 そこには、一切の罪を祓って、赦してしまうような、魔力と形容できる程に美しいものが在って、それが世界の純粋を守っている。 他が淀んでも、そこだけがけっして淀まないように。 いつまでもこの世界から、純粋なものが無くならないように。 そして、その「世界を守る美しいもの」が、『水に咲く花』と呼ばれる存在。 その『水に咲く花』の力を、ほんの少し身体に宿した『水に咲く花』の後継者が、『水晶』と呼ばれるもの――。 「……『水晶』……か。本当にそんなもの、いるんだよな。……ふーん……」 昔、さんざん村の大人達から聞かされてきた言い伝えを思い出して、イルは溜息をついた。 はっきり言ってイルは、村の大多数と同じく、そのすべてを信じてはいない。 まず、世界が純粋であるとか淀むとか、そのことがよく理解できなかったし、仮にそんなものがあるとしても、そんな形のないものを、どうやって守るというのか。 そもそも、世界で一番の綺麗なところというのは、どんな場所なのか。 罪を祓って赦すというが、罪とは一体何なのか。 すべてがあいまいで、わからないことだらけである。少なくとも、イルには。 しかし『水晶』という存在が、世界を震撼させている、ということが事実であるのは知っていた。 他に類を見ないほどの美しさ。何があっても汚れることのない、純粋さ。そして、世界にたった一人だけの、『水に咲く花』の後継者、というその希少価値から、たくさんの人間がそれを狙い、求め、捕らえようとしているのだということも。 ゆえに、『水晶』に関われば、命の保障は無く、問題に巻き込まれることは、必至。 一般市民のイルにしてみれば、何よりもそこが重要だった。面倒は、絶対、御免だ。 「……まあ、町はこんなに広いし、『水晶』は一人だし。大丈夫だろ」 出会ったりしたら、それは、奇跡だ。 店の外まで見送ってくれた肉屋の主人が、扉の掛札を引っくり返している、その背中に手を振って、イルは再び夜の町を歩き出した。今度こそ、目的の宿屋の方角に足を向ける。 吟遊詩人が歌っていたところが、赤い屋根の二階建ての建物。先程の簡単な見物中に、場所は確認しておいたので、かなり気楽だった。 さっきよりほんの少し、ざわめきが落ち着いた夜の町。 吟遊詩人の歌声が、こんなに遠くまで聞こえてくる。 その歌に耳を傾けながら、イルはレンガ造りの路地を歩いた。レンガが模様を成していることに、歩きながら、ふと気がついた。 いちばん近くの曲がり角を曲がり、真っ直ぐに行けば宿屋だ。耳に流れてくる歌声が徐々に近くなる。 ああ、綺麗な声だなあと、そんなことを思って、角を曲がった、 ――その、瞬間。 「っ、う、わっ……!」 「……ッ……!」 死角になる場所から、誰かが勢い良く飛び出してきた。 そのことに気づいた時はもう遅すぎて、イルはその誰かと、正面から思いっきりぶつかってしまう。 後ろに倒れる身体。足がもつれ、転びそうになったが、ぎりぎりのところで回避した。子供のころ、羊の上を渡り歩いてつちかった平衡感覚が、妙なところで生かされる。などということを考えている場合ではなく、イルは慌てて視線を落とした。 ぶつかった誰かは、自分よりも小さくて、細かった。どさっ、とかいう音も聞こえた。きっと向こうは転んでしまったのだ。 「っ、ご、ごめんっ、……っと、大丈夫か……じゃなくて、大丈夫ですか…… ……。」 手を貸すよりも何よりも、まず謝ろうとした、イルの声が、 ――出なくなる。 「……」 「……い……え、……こちら、こそ……」 ぶつかった誰かは、確かに自分より小さくて、細かった。 ともすれば少女のようにも見えるが、声からして、多分、おそらく、青年。イルより少し年下の。…自信は無いが。 夜明け色の髪に、水青色の瞳を持ったその人は、尻餅をついたままの状態でイルを見上げる。その顔は、あまりにも綺麗に整っていた。声が無ければ、青年だとわからない程に。 その人は、自分と同じ、おそらく男なのに。 ……あまりにも綺麗で、見惚れた、なんて。 「…………」 「……あの……?」 「…………」 「……どうか、しましたか? ……僕の顔に、何か……」 「……! あ、いやっ、何でも……と、にかく、すみませんっ、オレ、ぶつかって……!」 夜明け色の青年……名前がわからないので、そう呼ぶことにしよう……の何度目かの問いかけで、イルははっと我に返った。 そして、ぶつかったこと、夜明け色の青年の綺麗さ、ついでに、男に見惚れていたのだという事実に、イルは焦りまくった。 やばいしまったどうしようどうすればいいんだ、と、頭の中で無意味な言い訳がぐるぐる回る。 誰がどう見ても慌てているとわかる、イルのあたふたとした仕草に、夜明け色の青年は少し困ったように話しかける。ひかえめなのによく聞こえる、その見た目に合う声だった。 「……あの……、そんなに、謝らなくても……。僕が急に飛び出したのが、悪いから……」 「え、……あの、そう…なのか? ……、でも、そうでもない…… ……。 ……あの、とにかく」 綺麗な声。耳に馴染む、優しい声だ。それは毎日、村の空を飛んでいた、美しい声で歌う小鳥に似ていた。 静かな声で、イルはようやく落ち着きを取り戻す。深く、深く息を吐くと、未だに地面に座り込んだままの彼に、すっ、と右手を伸ばした。 「……立て、……る、か?」 「……あ……。……うん」 イルの伸ばした手の中に、夜明け色の青年は、少しためらいながら、自分の右手を滑り込ませた。 白くて細い手。本当に女の子みたいだな、と思った瞬間、イルは首をぶんぶんと大きく横に振る。ごめん冗談です嘘だから違うから、と、心の中で隣の家の娘に全速力で謝るその姿を、夜明け色の青年は、自分が原因だと知らずに、首を傾げて見ていた。 今度はすぐに落ち着きを取り戻したイルは、夜明け色の青年を引っ張り起こした。裾が五つに分かれた薄紫色のワンピースを着て、その下に細身のズボンを穿いている。不思議な服だ。きっと裾を広げて真上から見たら、花のように見えることだろう。 引っ張れば、ふわりと浮かぶように地面に立つ身体。何もかもが見た目通りの人だな、と思った。 「あの……。……ありがとう」 「え? ええ、あ、いや、オレがぶつかったんだし、そもそも……」 少し前にも、こんな会話をしたような気がするが、二人は気づかない。そして。 「……。……あの……。……一つ、お願いがあるのだけれど……」 「いや、だからオレがぶつかっ、……お願い?」 夜明け色の青年は、す、と一歩、イルに近づいた。顔が近くなる。 初対面、見ず知らずの人間である自分に、一体何を、お願いなんか。 イルには到底わからなかったが、夜明け色の青年は、イルの疑問に満ちた顔を無視して、ただ、きっぱりと、言った。 「僕を、殺して」 夜明け色の青年はイルの手に、ワンピースに良く似た形状の服の中に隠していた綺麗なナイフを差し出した。 よく手入れされた、白銀色の刃。美しい木目が見える柄には、花をかたどった美しい彫刻が施してあった。思わず、見惚れてしまうほどの。 だからすぐには、気づけなかった。 「………………は?」 少女のような見た目、夜明けを思わせる綺麗な声。儚い雰囲気、細い手首。 そんな、夜明け色の青年が紡いだ、言葉の意味を。 |