水性花  

01−4 『水晶』

 空がほんの少し白んできた頃の、青から紫のグラデーションを、夜明けと呼んだ。
 夜明けを少し過ぎた頃の、赤から橙、黄色のグラデーションを、朝焼けと呼んだ。

 目の前には、夜明け色の青年が、いる。

「僕を、殺して」
「……って……。……言われて、も……」

 差し出されたナイフの柄を握ったままの格好で、イルは夜明け色の青年の『お願い』にただ、困惑していた。
 当然、意味がわからないわけではない。
 だが、あまりにも唐突で、しかも、内容が内容だ。頭の中が混乱しきって、何が何だかわからない。
 自分に何をしろと言ったのだろう。目の前の、この、綺麗な青年は。

 ……やはり、意味がわからない、で正しいのかもしれないなと、そんなことを思う余裕は、当然無かった。
 とにかく落ち着こう、と、イルは大きく息を吸い込んだ。そして言う。

「……あの、自分が何言ってるか、わかるか?」
「わかっている。わかっているから、言っている。…簡単だよ」

 ナイフの柄を握ったイルの手を取って、軽く、引いた。細い首筋に、白銀色の刃の先を当てる。
 まるでそれが当然であるかのような、軽々しさで。
 夜明け色の青年は、純粋に真っ直ぐに、イルを見ている。水青色の瞳は、水のように揺れていた。何かを決意した、しかし何かに迷って決断しかねているような、水のように不安定な印象を覚えた。

「このまま、手を引くだけ。……簡単でしょう?」
「……っ、……っの、ちょっ、……待てよ!」

 夜明け色の青年の『お願い』を、ようやく理解したところで、混乱は激情に変わった。

 イルは、小さな村の羊飼いで、一般市民であった為、理解したと言っても、それは、本当にただ、殺して、という言葉を真っ直ぐ捉えただけの、漠然とした理解ではあったが。

「……なあ、何、言ってんだ? ……おかしいだろ、そんなの……」
「……どう、して?」
「どうして、って……。……だって、そんな……。
 ……殺して、って言われて、ああはいわかりました、って、言われたとおりに殺せるやつなんか、いるわけないだろ!」

 深い意味なんて、ありはしない。ただ、イルは、ごく普通の青年だ。人が人を殺すということが、軽くない。
 小さな頃、戦争というものになれば、人が人を殺すということがとても軽くなるのだという話を聞かされたことがあったが、イルには理解できなかった。

 夜明け色の青年は、不思議そうに首を傾げる。子供そのもののようなしぐさで。
 内容がもっと別のものであったなら、そんなかわいらしいしぐさでほだされたかもしれないが、そんなわけにはいかなかった。
 一体彼は何故、僕を殺して、などと言うのだろう。
 人の気持ちが他人にわかるわけはないが、目の前のこの青年の気持ちは、なおさらわからない。肩より少し長い夜明け色の髪が、首を傾げるしぐさに合わせて、わずかに揺れる。

「……そう……、か……」
「……?」

 やがて。
 夜明け色の青年は、水青色の瞳を揺らせて、うつむいた。その隙をついて、イルはナイフを持たされた手を引いた。
 青年の首を斬ってしまわないように、注意深く。

「……ごめんなさい。……当たり前ではないよね。……こんなことは……」

 ぽつり、と呟いたその声は、夜明けのような、綺麗な、優しい声。
 とても、純粋な。
 夜明け色の青年は、ナイフをおさめて、イルを見上げた。そして、ふわり、と微笑む。

「ごめんなさい。……困らせてしまったよね」
「……あ、……いや……。……わかってくれれば……」

 それは、とても魅力的な微笑みだったが、どこか寂しそうでもあった。
 途端に弱いものいじめをしたような感覚に襲われ、言い過ぎただろうか、と、イルはちょっぴり落ち込んでしまう。

 自分は自分の考えに基づいて、言いたいことを言っただけだ。そんなことはわかっていたが、目の前の青年は、あまりにも綺麗で、儚かった。
 罪悪感たっぷりの顔でうつむくイルの顔を、夜明け色の青年は覗き込む。

「あなたが、そんな顔をする必要は、無いと思う。
 ……僕が、悪いのだから」

 その顔で、その表情で、その言葉は、ダメ押しだろう。
 ……イルは更に落ち込んだ。

「……だから……」
「……いや、もう、何も言わないでいいから。……うん……」

 イルは、深く溜息をついた。既に、どちらが悪かったのか、わからない。
 これ以上落ち込むのも何か嫌だ、と、イルは気持ちを切り替えるように勢い良く顔を上げた。勢いが良すぎたのか、夜明け色の青年は、ほんの少し目を見開いて驚いたような顔をした。

「とにかく、さ。……あんまり、そういうこと言うなよ」

 これしか言えないけど――そう言って笑うイルを見て、夜明け色の青年は寂しそうな顔をしたが、イルはその時はまだ、それには気づくことができなかった。
 そして、今自分が言ったことが、夜明け色の青年にとって、どんな意味を持っていたのかも。

「それじゃあ、オレは行くから」
「……うん」

 夜明け色の青年は、ふわりと微笑み、イルに軽く手を上げた。
 ああやっぱりかわいいなあ、ってそういうことじゃなくて、と、既に何度目かわからないツッコミを自分に入れると、イルもそれに応えるように、片手を上げた。
 横をすり抜けて、宿屋の方へ踏み出す。

 そのまま、この細い路地を抜けようとした、その時だった。


「……おい、いたぞ!」


 目の前が、急に明るくなった。紐にぶら下がっている灯りとは違う、もっと眩しい、目を突き刺すような光。
 思わず細めた瞳の先には、何人かの男達がいた。路地をふさぐように、立っている。
 男達の手には、長剣や斧、弓など、様々な武器が見えた。

「……は?」
「ようやく見つけたぜ。……あの野郎に、随分やられちまったが……」

 わけがわからない。
 一体、何を言っているのだろう。
 男達の目には、少なくとも、イルは見えていないようだが。

 剣の柄を鳴らしながら、口の端を上げる男達を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていたイルは、その時、確かに感じた。
 イルの背中の後ろ、…夜明け色の青年が、息を詰める気配を。
 そして、純粋な、水の気配を。


「……その純粋、もらったぜ――『水晶』!」
「……!」
「えっ……、……な、ん、だって!?」


 男達は、各々の武器を握り返し、一斉に飛び出した。
 剣先を向けてくるもの、矢をつがえるもの、斧を振り上げるもの。
 わけがわからない、という状況をとっくに越えて、身動きが取れなくなっているイルの腕を、夜明け色の青年は、後ろから強く引いた。
 その勢いで、イルは路地に腰を打ちつける。
 イルを庇うように立った夜明け色の青年は、ふいに指を動かした。宙に、何かの印を描く。そして、

「……〈アクエリア〉!」

 高く、空まで届くような、清冽な声。
 響き渡った瞬間、あるはずのない水の気配が強くなった。
 夜明け色の青年の前に、紛れもない、水が現れる。そしてその水は、強すぎない力で、男達全員を襲った。ばしゃん、と水のはじける音がして、男達は足を止める。

「っ!」
「立って! 早く、ここから、逃げて!」
「え……、え、あのっ……」

 真っ直ぐに言葉を突きつけられ、イルは余計に混乱した。立って、と言われても、うまく足が動かない。
 武器を持った男達。空中から急に現れた水、そして、目の前の青年。
 何もかもが、イルのまったく知らない世界だった。一体、何が起こっているのだろう。
 ただ、二つだけ、わかったことがあった。

 目の前の、夜明け色の青年は、会うこともなかったはずの、『水晶』で。
 目の前の、夜明け色の青年は、今、追われ、狙われているのだということ。

「……っ……、……逃げて、じゃないだろ……!」

 イルは、手をぎゅっと握りしめた。
 混乱の最中にある頭を、落ち着かせることはできなかったが、冷静になることはできた。
 目の前を、強く睨む。立ち上がって、そして。

 夜明け色の青年の手首を、ただ、勢いのままに、引っ掴んだ。軽い身体を、引いて。


「……お前も、だ! ……逃げよう!」


 その時、イルは気づいていた。夜明け色の青年の顔が、驚きに満ちていることに。
 けれど、そんなものは無視した。イル自身、自分の決断に、戸惑っていたのだから。

 世界で一番、綺麗な心。純粋な心。
 『水晶』に関われば、命の保障は無く、問題に巻き込まれることは、必至。
 そう教えられたのは、そう思ったのは、紛れもなく自分なのに。

 手を引いて、逃げる。戦う術なんて、持っていない。だから、逃げるしかない。

 この時、イルは知らなかった。もう、きっと、逃げられないということに。
 これから先に待ち受けるのであろう、『水晶』をめぐる、何かから。


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