水性花  

01−5 壊す、基準

 剣は、木の皮を剥ぐ時に。斧は、薪を割る時に。弓は、必要な分だけ、鳥を獲る時に。
 ああ、オレのいたところは、やっぱり平和だったのだ――と、本当に、そう思えた。

 そして、今。
 ごくごく普通の一般市民、イル=ファートは。

「……っ、……だーもう、しつっこいな、本っ当……!」

 剣に追われ、斧に追われ、弓に襲われていた。『水晶』の手を、引いて。
 イルは剣の使い方も、斧の使い方も、弓の使い方も知らない。
 そんなもので人をどうにかする術なんて、知らない。
 昔読んだ物語のように、剣を握り、お姫様を守って、敵を一掃できればどれほどかっこいいだろう、と、思わないことはないが。

 あいにくとイルは剣を使えないし、引いている手の持ち主は一応男である。
 だから逃げるしかなかった。
 男達の剣が届かないように。斧や弓が、誰かを傷つけないように。

 細い路地の間を、走り抜ける。
 先程立ち寄った肉屋の前、店仕舞いをしているパン屋の前など、色々なところを横切って。
 イル達の方が身軽であるため男達より速く走れることだけが、たった一つの武器だった。男達との距離はだんだん長くなっている。
 もう少し。
 あそこで曲がって、更に曲がれば、きっと、男達を撒けるはずだ。

「曲がるぞ!」
「あ、うん……!」

 宣言してから、イルは目の前の曲がり角を曲がった。灯りが届かず暗いその場所には、更に曲がり角があった。注意深くなければ、見落としてしまいそうな程に目立たない。
 そこを曲がってイルは身を屈める。同時に、夜明け色の青年にも身を屈めさせた。口をふさいで、外の様子を確かめる。
 ばたばたと、男達の足音が、近くなった。すぐ横で話し声が聞こえる。

 どうか、ばれませんように。
 そんな願いは、息をもひそめさせた。

「……ちっ、どこ行きやがった…?」
「ここを真っ直ぐに行ったんだろ、……そうすれば、町の出口だ」
「ああ、でも、あの野郎は……」
「町の外で合流、とでも言ってあるんだと思う。……行こう!」

 短い会話の後、再び気配は動いた。路地に、騒がしい足音が響く。イルは注意深く、その気配をさぐった。

 やがて、足音が聞こえなくなって、……そして。

「……はー……。……良かった、逃げられたみたいだな……」

 イルは、張りっぱなしだった気を、一気に緩めた。夜明け色の青年の口をふさいでいた手を離して、ずるずると、壁に背中をまるごとあずけてしまう。
 胸に手を当ててみると、鼓動はかなり早まっていた。
 ああやっぱりな、と思い、イルは深く息を吐いた。……緊張しないはずがないのだ。

 あれだけ、わけのわからない状況に囲まれておいて。
 立ち上がり、夜明け色の青年と逃げ出す、という判断ができただけでも、自分を褒めてやりたかった。そして、宿屋に行く前に、町の路地の構造を探検しておいた、自分の好奇心にも。

 イルは自分の横にいる、夜明け色の青年に目をやった。夜明け色の青年は、自分の胸を手で押さえて、浅い呼吸を繰り返していた。具合が悪いのだろうか。

「……あの、大丈夫……か? ……なんか、苦しそうなんだけど……」
「……、……へ、いき……」

 どう見ても平気そうには見えないが、イルはそうは言わない。
 とりあえず、呼吸が整うまで様子を見ることにしようと決め、イルはふっと上を見上げた。空を見るのは、考え事をするときとボーッとするときの、イルの昔からの癖だった。
 細い路地。
 建物と建物の間から、いくつかの星がまばらに見えた。深い、夜。

 なんだか、いろいろなことがあった。『水晶』の噂を聞き、会うこともないだろうと思っていたのに。
 町でぶつかった誰かは、自分に「殺して」と懇願し、しかもそれが『水晶』だった。
 世界は広いが世間は狭い。そんな言葉を、嫌というほど思い知る。

 イルは、夜明け色の青年に、もう一度目をやった。
 気づかれないほど、さりげなく。
 水晶というのは、色の無い、硬質な鉱物のことだ。そして、『水晶』と呼ばれる、女の子と見紛うような、なにもかもが綺麗な青年。
 確かに、水晶と言われれば、そういう印象を持つかもしれない。色の無い、硬質な、とても美しい物質の名前。

「……魔導士、だったんだな……。
 ……水の魔法は、……怪我をさせないための……」
「……え?」

 ほんの独り言のつもりだったのだが、どうやら聞こえてしまったようだ。
 首を傾げているということは、おそらく、内容までは聞こえなかったのだと思うが。子供のようなしぐさに、イルは少し笑いながら、何でもないよ、と言った。

 その時だった。
 ……肩に、何か、ふわりとした何かが乗ったのは。

「……え、なっ……?」
「……っ……!」

 何か、が、夜明け色の青年の髪だと気づいたのは、一拍置いた後だった。
 驚いて見てみれば、そこには、綺麗な顔を、苦しそうに歪ませた青年がいて。呼吸は、先程と少しも変わらず、かなり浅い。何よりも、とても苦しげだった。
 イルの肩にもたれたのは、本能がせめてもの安らぎを求めたからだったのだろうか。
 そしてイルには、そんなことを冷静に考えている余裕など、ありはしなかった。

「あの、ちょっ……!? どうしたんだ、そんなに具合悪いのか!?」
「……だいじょう、ぶ……。……身体、もと、から……少し、弱く……て…… ……っ……」
「大丈夫じゃないだろ! っ、ああもう、とにかく…」

 イルは、混乱を抑えようともしないまま、とりあえず立ち上がった。夜明け色の青年の華奢な身体を、両腕で抱え上げて。
 そうだ、とにかく、何かしないと始まらない。
 イルの頭に浮かんだ、とりあえずの最善策は、たった一つだった。

「宿屋行って、とりあえず寝よう! それでいいな!?
 駄目っつっても、行くからな!」

 なりふり構わず、叫ぶように言った。夜明け色の青年が、わずかに首を振ったのには気づかずに。
 気づいたとしても、今のイルには、反論を許す余裕は無かったのだが。
 抱えた青年に負担をかけないように気をつけながら、イルは隠れていた路地を飛び出した。
 そして、路地から、人がまばらに行き交う広場に出た瞬間、


「待て!」

「……っ?」

 イルを、更なる混乱に導く声が、辺りに響き渡った。
 町が、静まり返る。



 ――イルの前に、赤く汚れた水晶製の長剣を構えた、誰かが立っていた。



 朝焼けを思わせるような色の短い髪に、血赤色の瞳をしているのが、町に浮かぶ灯りのお陰でわかった。
 剣士がよく着用する襟の開いたシャツには、皮製の胸当て。細身のズボンは、剣帯を取り付けたベルトで閉めて。その上からマントを羽織って。

 血赤色の瞳が、真っ直ぐにイルを見ていることにも、イルはすぐに気づいた。
 と言うよりは、睨むような。

 ぞっとした。長剣の赤が、血であるとわかった瞬間に。
 あんなに、すぐに気づけるくらい血に塗れた、透きとおった刃。そんな光景は見たことがなかった。

 朝焼け色の青年は、イルを真っ直ぐに見て、きっぱりと言う。

「リルーヴェルを、返せ」
「……は?」

 そしてそれは、イルにはまったく理解できない台詞だった。

「……えーと。あの、オレ、急いでるんで」
「お前の都合はどうでもいい。……返さないなら、武器を取れ」
「……。オレ、武器なんか、持ってないし」
「戦わずに、リルーヴェルを奪うつもりだったのか。なめられたものだな」

 一応イルと会話をしているようだが、ほとんど、聞く耳を持たないといった状態。
 本日何度目かの混乱に襲われ、やはり身動きがとれなくなっているイルに、朝焼け色の青年は、ふっ、と近づいた。まばたきをしている暇さえ無いような、恐ろしい速さで。

 イルの目の前で止まった朝焼け色の青年は、迷いもせずに、長剣をイルの首筋に当ててきた。
 血にまみれたそれと、血赤色の瞳に、イルは自分の身体が強張るのを自覚した。

「……っな……、」

 何が起こっているのだろう。どうして、こんな、たった数時間の間に、理解できないいろいろなことが起こるのだろう。
 少なくとも、青空が広がっている時間までは、イルの世界は、とても平和なもののはずだった。
 血も、剣も、『水晶』も、何もない。
 殺して、と言われることも。こんなふうに、剣を突きつけられることも。

 混乱に声が出ないのを、どう解釈したのか。
 朝焼け色の青年は、冷たい無表情のまま、剣の柄を握り返し、力を込める。イルの本能が、やばい、と告げた。

「くだらない欲に溺れたのが、運の尽きだったな――……」
「え、えええっ!? いやあの、ちょっ、と、待っ――……!」

 イルは、反射的に瞳を閉じた。
 夜明け色の青年を抱える腕にも、思わず力が篭もる。

 こんな、わけのわからない状況で、死ぬのかオレ――。
 そう思ったのは、ほんの一瞬だった。

「……やめ、て……」

 急に、水の気配が現れたのを、イルは感じた。
 さっき、男達と対峙した時に感じたような、魔法特有の不思議な気配。現れた水が、朝焼け色の青年の剣と、イルの首とを、やわらかく包む。
 水の弾力で剣ははじかれ、イルの命は守られた。……首がちょっと冷たいが。

「……ファルファイ」
「……! リルーヴェル!」
「え……、……え?」

 イルの腕の中で、夜明け色の青年が、閉じていた瞳を開く。
 水青色の瞳が、朝焼け色の青年を真っ直ぐに見た。ファルファイ、と、力無く呼ぶ声。
 その声に呼ばれ、朝焼け色の青年は、剣を腰の鞘におさめた。血赤色の瞳が、夜明け色の青年を見つめた。

 まったく状況が把握できていないイルをきっぱりと無視して、二人は声を交わす。

「リルーヴェル! ……大丈夫なのか!?」
「……ファルファイ。……違う……この人、は……。……僕を、助けてくれて……」

 途切れ途切れの声。イルは混乱する頭で、状況を整理する。……が、度重なる混乱に襲われた頭は、簡単には落ち着いてくれず、わかったことは、三つだけだった。

 夜明け色の青年の名前が、リルーヴェルであること。
 そして、朝焼け色の青年の名前が、ファルファイであることの、二つ。
 そして、この二人が、知り合いであるということの、一つ。

 しかし、そのことがわかっても、やはり状況は理解できないままだった。
 ただ、やはり、夜明け色の青年……リルーヴェルは、具合が悪いのだ、としか。

「……なあ、えっと……。……とにかく、この子を、休ませてあげたいんだよ」

 そう思って、すぐに言葉が口から出てきた。朝焼け色の青年……ファルファイの、血赤色の瞳がイルを睨むが、今度は怯まない。
 笑顔が引きつるのを隠しながら、続ける。

「だから、宿屋に連れて行こう、って。当てがあるんだ。
 ……あんたも、来るだろ? この子の、保護者……っていうか、多分、そんなものだと、思うんだけど……」
「……。……わかった。……リルーヴェルのためなら」

 ファルファイは、剣を向けていた時とは打って変わって、すんなりと承諾した。
 冷たい殺気が消えたのに気づいて、イルはもう、何度目かもわからない溜息をつく。
 だけど、いつまでもめげていられない。
 再び瞳を閉じたリルーヴェルをしっかり抱えなおして歩き出すと、

「お前、名前は」

 後ろから、監視のような視線を向けながらついてくるファルファイが、こう尋ねた。

「へ? オレ? ……イル。イル=ファート、だけど」
「そうか。なら、イル=ファート――『この子』呼ばわりは、やめろ」

 ファルファイが、口の端を上げる。大人が子供をからかうような顔だとイルは思った。

「俺も、リルーヴェルも、二十歳だ」
「……え……。……えええっ!?」

 イルは、腕の中でぐったりとしている、リルーヴェルに目を向ける。イルよりも小さくて細い、ともすれば少女のような、そんな見た目。
 ……かなり童顔だ。

「お前は、十八歳くらいだろ? ……呆けてないで、さっさと宿屋へ案内しろ」

 リルーヴェルを早く休ませてやりたいんだ、と言うファルファイが、ぎっ、とイルを強く睨む。
 こっちはともかく、リルーヴェルが自分より年上だということにまだショックを隠せないが、早く休ませたいのはイルも同じだった。無理矢理立ち直って、広場を突っ切る。
 広場を行き交う人々は、イルとファルファイ、そしてリルーヴェルにひたすら注目していたのだが、イルは気づかないふりをした。

 やがて、イルが広場を抜けて、赤い屋根の二階建ての宿屋に着いたころ。
 町はようやく、夜のざわめきを取り戻した。浮かぶ灯りだけが、いつまでも変わらない。

* * *

 宿屋の主は、それはもう、とてつもなく良い人だった。
 病人と付き添いがいるから、三人部屋にしてくれないか、という無茶なお願いを聞き入れてくれた上に、食事は運んであげるから、とまで言ってくれた。
 医者を呼ぼうかとも言ってくれたが、ファルファイの判断により、その厚意は断ることにした。曰く、大きな町の医者は信用できない、だそうだ。
 代わりに何か、さっぱりとした果物を、と言うと、主はやはり快く頷いてくれて。
 この宿屋を紹介してくれた兄に、イルは心の端で、こっそりと多大な感謝をした。

 宛がわれた三人部屋の、真ん中のベッドに、リルーヴェル。
 一番手前のベッドに腰掛けているのは、イル。
 そしてファルファイは、剣を腰に提げたまま、扉のすぐ横に腕を組んで寄りかかっていた。血赤色の瞳の先には、上半身を起こしてイルとなごやかに談笑している、ようやく体調も良くなってきたリルーヴェルの姿があった。

「……イル、ありがとう。……面倒をかけたよね」
「え? ああ、いや、別に、オレは何も……。お礼なら、ここの主さんに言ってよ」

 オレはここを知っていただけなんだから、と言うイルに、リルーヴェルは笑いかける。
 リルーヴェルが微笑むたびに、イルは、ファルファイがこちらを睨んでいるような気がしてならなかったが、絶対に気のせいだ、と何度も言い聞かせることで、なんとか混乱を遠ざけていた。
 もうこれ以上混乱に陥るのは、いくらなんでも、御免だった。

 しかし、どうしても、聞いておかなければならないことがある。

「……あの……。話しにくかったら、駄目でいいんだけど……」

 ぽつり、とイルが呟いたのと同時に、周囲の空気が強張る。
 二人とも、わかっているのだ。きっと。
 イルの、聞きたいことの、内容を。ここまで関わってしまったのだから。

「……リルーヴェルは、その……。……『水晶』なのか?
 ……本当に?」

 ここまで関わっておいて、そ知らぬふりはできない。
 本音を言えば、知らん顔をしてしまいたいところだったが。
 『水晶』に関われば、命の保障は無いと、知っている。知っているからこその決断かもしれなかった。
 人並みの正義感は、持ち合わせているから。

 ほんの一瞬、祈るように瞳を閉じて、リルーヴェルはイルに向き直る。
 ファルファイは何も言わない。リルーヴェルに、全てを任せる考えらしく、その瞳を伏せてしまう。

「うん。そうだよ。……僕は、『水晶』だ。
 さっきの男の人達は、僕を狙っていた」

 細い手をその胸にとん、と当てて、リルーヴェルは取り繕うこともせず、素直に言った。
 予想のついていた答え。イルは、怯まず、更に尋ねる。

「なら……。『水晶』っていうのは、何なんだ? よく、わからないんだけど、オレには」

 リルーヴェルが素直に答えるから、イルも素直に白状する。何もわからない、と。
 ふわりと微笑んで、リルーヴェルは続けた。綺麗な声だと、やはり思う。

「僕にも本当は、よくわからないんだよ。
 ただ、僕は、人には無い、何かを持っているらしいんだ。
 それは、人に言わせれば、〈汚れることのない純粋〉らしいけど…」

 汚れることのない純粋。
 イルは、言い伝えを思い出す。
 純粋が汚れないように、世界のどこかでたった一人、純粋を守り続けている『水に咲く花』。
 その力を身体に宿した、後継者の『水晶』。

「……汚れている、とか、汚れていない、とか。……わからないんだよ。僕には、ね」
「……そっか。……やっぱりよくわからないけど、とにかく……。
 リルーヴェルは『水晶』で、さっきの奴らみたいなのに狙われるような、何かがある、ってことだよな?」
「うん。それで、いいと思う。……よくわからない答えで、ごめんなさい」
「いや、謝らなくても……。そんなもの、わからなくて当然だと、オレは思うし」

 言い伝えは、半ば神話と化している。そんなものの正確なことは、わからなくて当然なのだ。
 少し、情けない話だけれど。
 苦笑するイルに、リルーヴェルは微笑みかける。やはりファルファイが睨んでいるような気がしたが、絶対に気のせいだと思い込んだ。

「よくわからないけど、それじゃあ、リルーヴェルって、すごいんだな」
「……。……そう、なのかもね……」

 人とは違う何かを持っているというのは、平凡な青年であるイルにとって、すごいことだった。羨ましいわけでは、ないのだが。
 そんな子供のような気持ちから出た、素直な言葉だったのだが、リルーヴェルは、僅かに表情を曇らせた。声が少し、硬くなっていた。

「……リルーヴェル。話はもういいだろ? 早く、寝ろ」

 リルーヴェルの僅かな変化に気づいたのか、それとも気まぐれだったのか。
 それまで黙っていたファルファイが、会話を中断させた。
 突然のそんな台詞に驚いたのか、目を見開いてファルファイを見るリルーヴェルに、イルは笑って言う。

「そうだな。もう、夜も遅いし。早く寝た方がいいぞ」
「……うん。……ありがとう、ファルファイ。……イルも」

 にこ、と笑うリルーヴェルは、確かに、汚れのない、純粋な水晶のように思えた。
 色の無い、硬質な鉱物の名前。
 硬質な、というのはともかくとして、その素直さが、確かに水晶のような印象を人に与えるのだ。
 人とは違う、何かを持っているものとして。

「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」

 リルーヴェルの声に答えたのは、ファルファイだった。寄りかかっていた壁から離れ、一番奥のベッドへ向かう。
 何なんだろう、とイルが見ている先、ファルファイは、ベッドに沈んだリルーヴェルの髪を、大きな手で撫でてやっていた。
 親が子供にやっているようにも、恋人同士のようにも見えた。リルーヴェルが女の子だったら、本当に恋人同士にしか見えないだろうな、と考えが至ったところで、イルはぶんぶんと首を振った。ごめん、違うから、オレにそういう趣味は無いから、と、頭の中、隣の家の娘に、全力で謝る。

 そんなイルには目もくれず、ファルファイは、リルーヴェルの髪を、可能な限りの優しさで撫でてやっていた。
 初対面のイルに、恐い、という印象を与えた瞳に、途方の無い優しさを込めて。
 血にまみれた剣を握っていたはずの手は、今ではもうそんなものは、少しも感じさせない。
 それは、リルーヴェルという人にだけ見せる、ファルファイの優しさ。

 リルーヴェルが穏やかな寝息をたてるまで、二人は無言だった。

 ファルファイの邪魔をしてはならないと、イルはなんとなく、わかっていたから。






「……『水晶』、か。……こんなもの、厄介なだけだ」
「……え?」

 やがて、リルーヴェルの静かな寝息が耳に届き始めたころ、ファルファイは、ぽつりと呟いた。
 それをうっかり耳に留めてしまったイルは、つい聞き返してしまう。
 リルーヴェルの枕元に腰掛けて、リルーヴェルを見つめているファルファイに、目を向けて。

「……何か、言った?」
「人とは違う何かを持つことが、絶対得になるわけじゃない、と言ったんだ」

 まるで、剣のようだと思った。
 誰かを守るためと言いながら、何かを斬り捨てることしかできない、刃。
 ファルファイの言葉は、イルの心の奥深くに突き刺さる。
 それで傷つくのかといえばそういうわけではなくて、どちらかと言えば、衝撃を覚えた。

「お前も、知ったんだろう? リルーヴェルが、無意味に狙われていることに」
「……ああ。……今日、追いかけられていたのが、それだろ」
「……リルーヴェルが今まで、どれだけ命の危険に晒されてきたと思う?
 こんな華奢で頼りない身体で、こいつは。
 ……そんな目に遭いながら、汚れることもできないんだ」

 汚れることもできない。
 ……一体、何のことだろう。イルには、わからなかった。
 この無愛想な青年が、リルーヴェルのことを大事に思っていることは、なんとなくわかったが。

「……あの、ファルファイ。訊いて、いいか?」

 あらためて考えれば、不思議な二人組みだと思う。リルーヴェルとファルファイ。
 片方は、ぎりぎりの状況でも、人を傷つけないような魔法を選んで、使い。もう片方は、血にまみれた剣を、当たり前のように握っている。
 二人は、どこかが根本的に違うのではないだろうか。イルは、あまり人というものを深く見たことがなかったが、今この瞬間、なんとなく、そんなことを思った。
 だから、聞きたくなったのだと思う。命知らずにも。

 まったく違うのに、傍にいて、純粋な優しさから、髪を撫でてやるような、関係。
 ましてや、相手がリルーヴェルのような、見た目も心も素直で綺麗な、というなら。

「……その……。……ファルファイは、リルーヴェルを、そのー……」

 何で訊く側が照れているんだろうと思うが、イルはとりあえず、恐る恐る訊いてみる。

「……男同士、だけど、……あの、……えっと、そのー……。
 ………………愛しています、……みたいな?」
「………………。」

 瞬間。

 ファルファイの血赤色の瞳が、人を殺せる鋭さでイルを睨んだ。

「っ! いいいいや、あの、失言でしたッ、すみませんごめんなさいっ! あ、あのっ」
「……そうだな」

 何故か丁寧語で謝りまくっているイルは気にせず、ファルファイは、言った。
 イルが謝ることをやめて、ファルファイを見る。
 その視線の先には、リルーヴェルがいる。大きな手は夜明け色の髪を撫でている。けっして眠りから起こさないように。
 大切なものが、壊れないように、過剰なまでの気づかいをしているようなしぐさで。

「……愛とか、恋とか。そういう言葉で説明がつくなら、楽なんだろうな。
 例えば、リルーヴェルが、女だったら。
 ……抱きしめて、言葉を交わして、キスをして。水性花に愛を誓って、夜の闇に抱かれて、身体の奥深くでつながって。
 ……それで、心を、誓えるのなら」
「…………。……あの、えっとー……。……そのー……」

 隠すようなこともしない、それはとても純粋な気持ち。
 訊いたのはこちらなのに、イルは居た堪れない気持ちになった。
 やはり顔を赤くしながら、ひっそりと、言う。

「……たぶん、……男同士でも、その、そういうコト、……できないわけじゃ、ないと……」
「勘違いするな。俺はそういう趣味じゃない」

 それはイルにとっては心づかいのつもりだったのだが、ファルファイはそれを一瞬で破棄した。
 受け入れられても、それはそれで困っただろうが。

「リルーヴェルを女扱いしたいわけでもない――俺には一応、婚約者もいるしな」
「……へ、へえ……。」

 その婚約者とやらがものすごくかわいそうだとは、イルは言わない。

「だけどな――」

 そんな、どうでもいいことばかり考えていたから、イルはすぐには理解できなかった。
 ファルファイが、真っ直ぐに、純粋に告げた、言葉の意味を。


「リルーヴェルは、俺にとって、世界のすべてだ」


 それは、とても辛辣な言葉だった。

「……」
「リルーヴェルが生きているから、この世界が在るんだ。
 リルーヴェルがいなければ、こんなくだらない世界、滅ぼしたいくらいなんだ――」

 愛。
 恋。
 依存。聖域。神聖視。
 大切なもの。
 ……違う。どの言葉も、当てはまらない。

 イルは、世界の広さを知らない。世界というものが、どれだけ大きくて、広いのか。
 だから、わからない。何も思いつかない。
 ファルファイにとっての、リルーヴェルという存在の重さが。それを表す言葉が。

 その時、イルはまだ、知らなかった。
 足りなくなった針を買いに行くだけの旅が、違う方向に捻じ曲がっていることに。
 水に咲く花、『水晶』、そしてその他のいろいろなもの。
 何か、とてつもなく大変なものに、関わってしまったことに。

 戦うすべも持たないけど、逃げ出すこともできない。きっと、もう。
 二人の名前を知った時点で、イルは既に、世界の何かの関係者だった。


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