今から、七年程前の話だ。 イルの住む国の隣の隣の国と、更にその隣の国が、戦争になった。既に、原因が何だったのかは覚えていない。 隣の隣の国はベルガ国といい、更にその隣の国はエバール国という名前だったと、イルは記憶している。 ベルガ国が一方的に負けているような状態で、誰もがエバール国の勝利を確信していた。 もっとも、イルの住むこの国は、どの国に対しても中立を誓ったため、あまりにも平和ボケしており、戦争のことを話題にする人はあまりいなかったのだが。 おぼろげな記憶しか残っていないことを、少し恥ずかしく思った。 しかし、いよいよ、エバール国の勝利で戦争が終わる、という頃に。 ベルガ国に、英雄が現れた。 英雄は、たった一人で、透きとおる水晶製の長剣を握り、あっという間にエバール国の兵を倒していった。 それは駆逐とも殲滅とも呼べる状態で、残酷と言えば残酷だったが、それは戦争という名前の殺し合いだったので、血が飛び散る程に歓声は高く、高く上がった。 そして結局。その戦争は、ベルガ国の勝利で終わった。 たった一人の、英雄のはたらきで。 ベルガ国の王は、英雄に、様々な褒美を与えようとした。 地位、財産、名誉。 だが、元が遠い国の貴族であった英雄は、自分の持っているものだけで充分だと告げ、それを全て断った。それは、その王家の一人娘、王女との婚約という、次期国王の座までも。 英雄は、血にまみれた長剣を鞘におさめ、静かにその国を去っていった。 その隣に、まるで少女のような少年を、大事に、大切に守りながら――。 「……え……。……って、こと、は……」 「……うん」 人の円から逃げ出してきたイルとリルーヴェルは、暗い路地でひとまずの休憩を取っていた。あまり遠くへ逃げても、ファルファイがこちらを見つけられないし、明日船が出るのだから、港町の外へ行くわけにもいかない。 なにより、またリルーヴェルが体調を崩したら、イルは今度こそ、殺されるかもしれない。…ファルファイに。 そんな根拠の無い、しかし確実性のある不安により、休憩を取ることにした二人は、今は話をしていた。当時は世界中が話題に上げた、一人の英雄の話を。 リルーヴェルの話を聞き終えたイルは、目をまるくする。つまり、それは。 「……ベルガの英雄……っていうのは、……ファルファイのことだったのか!?」 「うん。そうだよ」 話だけは聞いたことがある。当時は、それはもう、世界中の男子の憧れとなったものの名前。 ……イルは感嘆の溜息を漏らしながら、ようやく納得した。何故自分が、ファルファイの名前に聞き覚えがあったのかに。当然だ。彼は、英雄だったのだから。 目をまるくして、溜息をついて、と、感情をそのまま顔に出しっぱなしのイルを見て、リルーヴェルは微笑む。子供を微笑ましく思っているような、大人の顔で。 普段があんまりにもあんまりなので忘れているが、彼は二十歳の青年だ。どれほど見た目が少女のようでも、どれほど儚げで折れそうでも、どれほど守られていても。 「あの頃僕達は、十三歳だったかな。二人で旅をしていた途中だったんだ。 ベルガ国の王さまは、色々なものをファルファイにあげたかったみたいだけど、彼はそれを全部断ったんだ。 ……王女さまとの婚約、なんていうものまで。 ……僕も、驚いたけれど。あの時は」 それはそうだろう、とイルは頷く。過程はどうあれ、次期国王の座など簡単に手に入るものでは無いのだから。 普通は断ったりはしない。きっと、普通なら。 「でね。その王女さまの名前が、ティティ」 「……。 ………………は?」 あまりにもさらりと言われたので、うっかり聞き流してしまうところだった。 「……何、だって……?」 「ティティ=ベルガ=レーン。 正式には、ティルハティーナ=エパーネル=アリベルガ=レーンヴィッグ。 確か受理されていなかったと思うから、今も、ファルファイの婚約者」 「………………えっ、なっ、そんっ、……ちょっ、何っ!」 「……どうしたの?」 きょとんとした様子のリルーヴェルが、こくんと首を傾げる。おそらくはその時も一緒にいたのだろう彼には当たり前の事実なのかもしれないが、残念ながらイルはただの一般市民だった。 ティティ=ベルガ=レーン。 つまり、先程までイルと一緒に港町を見回っていた、少女の名前。 確かにお嬢さまなのだろうとは思ったが、まさか――まさか、王女さま、だったなんて。 何でだ。何故こんなに、豪華な顔ぶればかりなのだろう。初めての短い旅。始まる前は、確かにイルは、ただの一般市民だったはずなのに。 世界にたった一つの『水晶』。 それを守るのは、かつての英雄。 そして、その婚約者の、一国の王女――。 ……頭痛がする。ような気がして、イルは頭を抱えた。 リルーヴェルが心配そうに下から覗き込んでくる。見上げる瞳はやっぱりかわいらしいが、彼は男だ。紛れも無く。 「どうしたの? ……頭が痛いの? 大丈夫?」 「……いや……。……別に、何でも……」 「本当に? ……大丈夫なら、良いんだけど……」 悲しそうな顔をするリルーヴェルは、あくまでも真剣だ。 その顔を見ながら、ああこんな顔をさせてるってばれたら、やっぱり剣を向けられるのかなあと、イルはどうでもいいことを考える。いやけっしてどうでもよくは無いが。命に関わる。 そんな、時。 「おい」 「!」 突然話しかけられたその声に、イルはまるで冷水を浴びせられたような錯覚に陥った。 慌てて、潜んでいた路地の入り口に顔を向けると、そこには声の通りの、ファルファイがいて。血赤色の瞳は、不機嫌そうにイルを睨んでいた。 ……怒っている。 「……ファル、ファイ。……あの、無事、だったんだな、良かっ……」 「俺のことはどうでもいい。……リルーヴェル、無事か?」 「うん。僕は、大丈夫」 リルーヴェルがふわりと微笑むと、途端にファルファイの顔から不機嫌が消えた。腕を伸ばし、その手で夜明け色の髪を、子供にするように撫でてやっている。 歳の離れた兄妹のようなそんな光景を、イルは黙って見つめていた。 ……違和感だ、これは。出会って、名前を知って、二人の関係を知ってから、ずっと。 「……行こう」 イルの視線を気にしたから、だとは到底思えないが、ファルファイはやがて、リルーヴェルの髪を撫でる手をそっと離した。 そして、くるりと踵を返し、歩き出す。 「? ファルファイ?」 「殺したわけじゃない。撒いてきただけだ。……ここから離れよう、リルーヴェル」 「……」 殺す――。 ……どうしても、イルにとっては、聞きなれない言葉だった。 リルーヴェルも、ファルファイも、まったく動じていないけれど。 「行くぞ」 「あ、うん……」 細い路地から目を凝らして、ファルファイは辺りを見渡す。先程の少女がいないことを確かめると、リルーヴェルに一回頷いて、自分は路地から表の通りに出た。 人込みの中に溶けても、確かにファルファイはそこにいる。 かつて一つの国をたった一人で救った英雄は、今は、このたった一人を守っている。 「……なあ、リルーヴェル」 「……イル?」 ファルファイの後を追いかけようとしたリルーヴェルを、イルは呼び止める。くるりとこちらを向いたその時、夜明け色の髪がふわり、と踊った。 見つめる瞳は、綺麗な水青色。こくん、と首を傾げる動作も、イル、と名前を呼ぶ声も、何もかも。 「十三歳……、 そんな昔から、ずっと二人きりで、旅をしてたんだな――」 遠い――遠い、知らない昔からずっと続くものだ。 「……。……うん。……そうだよ、ファルファイと僕は、ずっと一緒」 十三歳。 イルは、考える。その時自分は、何を考え、どんな日々を過ごしていたか。 少なくとも、足を痛め、血に塗れ、世界を旅することはしていないなと思った。 「……一緒にいなくちゃいけない。 ……一緒にいなければ、僕は……」 「……リルーヴェル?」 綺麗な横顔を、ふ、と一瞬曇らせて。 「……ううん。何でもない。行こう、イル。ファルファイが呼んでる」 「ああ……。……うん、そうだな」 ふわりと子供みたいに笑って、リルーヴェルはイルを呼んだ。 イルを呼んでいるのはリルーヴェルだけだ。人懐っこいのに踏み込ませない笑顔だけが、部外者のイルを呼んでいる。少なくとも、ファルファイは、イルを好いてはいないから。 きっとファルファイにとっては、一般市民のイルでさえ、排除すべきものの一つなのだ。『水晶』に近づく存在。彼にとってのたった一人を、脅かそうとする存在。 そこまで考えられるようになった自分が、イルは少し悲しかった。 |