水性花  

02−4 二人のかごの中

「見つけましたわ!」
「!」

 高いところから飛んできた声に、三人は立ち止まった。咄嗟に剣を抜き、リルーヴェルを庇うように立つファルファイは、上の方に視線を飛ばす。
 いた。建物の上。おそらくは、テントの屋根や建物の屋上を渡って、三人を――『水晶』を探していたのだろう。この人込みではきっと、そちらの方が見つけやすい。リルーヴェルは、よく目立つから。

 ふわり、と少女は跳び、軽やかに地面に着地する。間合いを取りながら、ファルファイは少女をにらみつけた。
 その後ろに、リルーヴェル。更にその後ろに、イルがいる。

「……ティルハティーナ……」
「お久しぶりです、リルーヴェル」

 おずおずと名前を呼んだリルーヴェルに、少女ははっきりと返事をする。気の強そうな声。気が強い、というよりは、高貴な。
 少女は正真正銘の王族らしいので、違わない。

「ティティ……、どうして……」
「あら、力ある者ならば、『水晶』を手に入れたいと思うのは当然なのでは?
 それとも私が『水晶』を求めるのは、おかしいと申しますの?」
「……」
「……リルーヴェル。止(よ)せ。何を言っても、変わらない」

 押し黙るリルーヴェルを後ろに守りながら、ファルファイは二人の会話を止めた。剣を向けたまま、少女を睨んだまま、苛立ちを隠そうともせずに、はっきりと告げる。
 そんなファルファイに目を向け、今度は少女が、苛立ちそのままに言った。

「変わらないのは貴方の方です。相変わらずですのね、お二人とも」
「お前に、何がわかる」
「昔から変わってないのですから、わかって当然です。
 貴方はずっと、昔から今までそしてこれからもずっと、リルーヴェルだけが大切なのですわね。――ファルファイ!」

 ぐ、と拳を握り締め、少女は跳び込む。一瞬で間合いを詰め、ファルファイの側頭部に拳を飛ばした。その攻撃は読まれ、ファルファイはそれを剣で弾く。

 その時、切っ先が少女の頬をかすめ、一筋の傷を描いた。
 少女の舌打ちと同時に、じわり、と滲む、赤い色。

 その瞬間、イルが、びくっ、と肩を竦めた。
 三人の中に入っていけないイルの目から見れば、それはまったく別世界の出来事だったのだ。

 人に、平気な顔をして、血を流させるなんて。

「……っ、」
「なっ……! ファルファイ、お前……っ!」
「黙れ!」

 思わず声を上げたイルを、ファルファイは一瞬で制した。
 その声の低さ、含まれた殺気に、イルだけでなく、少女、リルーヴェルまでもが、身体を強張らせる。

 ファルファイは剣の柄を握る手を翻した。少女の血のついた切先を、今度はイルの首に当てて。

「……っ……」
「大体お前は、リルーヴェルのことを知っていたのに、どうしてこいつを連れてきたんだ」
「……え……、」

 身体が震えている。首に当てられた剣の感触が、とても冷たい。凍った思考でイルは、ファルファイの言葉の意味を考えた。
 ただ、イルは、少女がリルーヴェルとファルファイを探していたから、そしてイルが、その二人を知っていたから、連れてきただけだ。

 少女が何故、二人を探していたのか、尋ねることもせずに。

「わかってるんだろ。リルーヴェルが、世界中から狙われていることを」
「……」
「なのにどうして、得体の知れない人間を連れてきた?
 ……俺は、」

 冷たい剣の先。
 自分の吐息が震えているのが、自分でわかる。
 頭の奥が、逃げろと言っているのがわかったが、指の先さえ少しだって動かせない、まるで自分の身体が自分のものでは無いような、そんな感じがした。
 息苦しい、胸の奥がざわついて、眩暈がする。

「リルーヴェルを傷つけるものには、容赦はしないことにしているんだ」
「……何……で……、」

 イルは、震える声で、ぽつりと言った。
 少しも理解できない、目の前のこの青年が。

「……ファルファイ、は……英雄……だった、ん、だろ? ……ベルガの、国の……」
「……?」
「……リルー、ヴェルに……聞いた、よ……。
 ……ずっと、戦ったって……一人で……」
「……。
 ……ああ。……もしかして、あの時の話か? 七年前の、あの時の」

 少しも変わらないファルファイの声は、怪訝そうにそう言った後、くっ、と喉の奥で笑う。
 血赤色の瞳が残忍に笑って、イルにきっぱりと、言った。

「馬鹿みたいだな。戦争で、人を虐殺すれば、英雄か。
 確かその功績がどうとかで、ティティと婚約、っていう話になったんだったな。そうだろ? ティティ」

 黙り込むティティ。ファルファイは、続ける。
 昔、一つの国を救った、英雄は。

「リルーヴェルは、その身体に、途方も無い魔力を持っている。『水晶』の魔力を。
 エバール国の連中が、それを狙った。
 俺は、リルーヴェルを狙ってきた奴らを、殺しただけだ。救う気なんか、無い」
「――」

 それは――確かにイルが知っているだけの、正しいファルファイの声だった。

「俺が大切なのは、リルーヴェルだけだ。それ以外はどうでもいい」
「……っ……、」
「お前も例外じゃない。……覚悟しろ」
「――っ……!」

 ぐ、と力が込められる。水晶製の、透きとおった剣。
 陽の光をとおしてきらきら光るそれは、いつだって真っ赤に、命の色に染まるのだ。
 それは今も、そしてもう、イルの知らないずっと前から、英雄の、たった一人の大切な、世界と同じ存在のためだけに。

 兄妹のような、だけどけっして穏やかではない。
 恋人同士のような、だけどまったく違う。
 考えれば考える程、不思議な二人。
 ファルファイと、リルーヴェル。
 『水晶』と英雄。

 殺される。
 殺されるということが、どんなことなのか、イルにはまったくわからないけど。
 ただ、故郷の村に帰れない、というのは、嫌だと思った。


 反射的に、瞳を閉じた。


 その、瞬間。


「ファルファイ、やめて!」
「……っ!」

 リルーヴェルが、低い背を懸命に伸ばして、ファルファイの腕にしがみついた。息を詰め、思わず剣を引いたファルファイの肩に、リルーヴェルは額を寄せる。
 剣の感触が無くなって、イルは無意識に閉じていた瞳を恐る恐る開いた。首は痛いが、血は出ていない。
 この二人と出会った時と同じ。朝焼け色の青年に殺されかけて、夜明け色の青年が助けてくれた。あの時の、よく通る綺麗な声の、『水晶』の、まったく同じ助けだった。

 剣を下ろし、ファルファイは、肩に縋っているリルーヴェルを見下ろす。
 その様子を、イルと、頬から血をひとすじ流したままの少女は見ている。

「ファルファイ。やめて。……やめて」
「リルーヴェル……」
「やめて。殺さないで。……イルは、悪くない。
 ……ティティも、悪くない。悪くないから……」

 それだけじゃなくて。と、静かに呟いて。

「……僕は、ファルファイが、誰かを殺すのは、嫌だよ」
「…………」

 静かな声。
 綺麗な声が耳に馴染む、そしてそれは、ファルファイの纏う空気を一瞬で変えてしまった。
 今までの不穏を消し、今のファルファイの瞳には、どこか悲しみに似た、切なさしかない。イルと少女に向けられた殺気なんか、少しも残っていなかった。

「ティティ」
「……何ですの?」

 リルーヴェルはくるりと振り返ると、今度は少女の名を呼んだ。
 ほんの少したじろぎ、しかしそれをけっして表に見せないように気高く取り繕いながら、少女は答える。

「……僕には、殺して手に入れるような価値なんか、無いよ」
「……」
「ティティは、そうは思ってはいないかもしれないけれど」

 リルーヴェルは、魔導士だ。世界の物理法則を無視した力を操るものの総称。
 魔導士の言葉には、呪文じゃなくても魔力が宿るのかと、ほんの少し思った。

「僕は、ティティと、ずっと話がしたかった。あなたとわかりあえないか、って」
「……」
「あなたの望みを知ってるよ。だけど僕は、ファルファイの傍にいなくちゃいけない」

 わがままで、ごめんねと――リルーヴェルは少し悲しく笑って。

「ごめんなさい」
「……別に……。……貴方が、謝ることではありませんわ……」

 イルとファルファイには、まったくわからない、重要な部分が抜けた二人だけの会話。
 だけどその会話は、魔法のように、少女の中の何かを完全に失わせてしまったらしく。

「……本気で貴方を、殺そうと思っていたわけではありませんもの」

 ティティは、拳をぐ、と握って、うつむき、静かにそう言った。





 それから。
 ティティはそれ以上、リルーヴェルの命を奪おうとはせず、またファルファイと戦う気も起こそうとはしなかった。
 いつの間にか日は暮れ、今日はもう宿屋に戻ろう、と言ったリルーヴェルの言葉に、反対する者は誰もいなくて。滞った空気の中、港町のどこかへ消えていったティティを視線で見送った後、ファルファイとリルーヴェルは、並んで宿屋に歩いていった。

 その背中を、イルは見ている。戻ってくる、夜もにぎやかな港町のざわめき。淡く光る灯り。潮の香りのする風と、月の見えない空と、小さな星たち。

 だけど、ファルファイは本気だった。
 リルーヴェルの身を案じるのを忘れ、ティティを連れてきたイルを、確かに殺そうとした。
 殺す、ということがイルには理解できないけれど、どれだけ怖かったか、まだ覚えている。
 人が、人を、殺すこと。

 七年前の戦争の中、ベルガ国を救った英雄は、国を救う気は無かった。たった一人を守っていただけだ。
 昔も今も、そして未来も、きっと変わらない、ファルファイのたった一つの信念に基づいて。
 ――その時は、十三歳だった少年は。

 ずっと奇妙だと思っていた。
 けっして、親友同士、とは言えない二人。
 イルの目から見れば、兄妹のように見えるけどそうではなく、恋人同士のように見えてもそうじゃない。お互いがお互いに依存しているような、だけどけっして依存では無い、二人。
 二人は、この世界に二人だけしかいないような、そんなかごの中にいるように見える。

 イルは、自分の首に手を伸ばす。傷の無い、血の出ていない、いつも通りの感触。
 だけど、喉の奥が、指先が、冷たく震えていることが、はっきり自覚できていた。


←02−3 02−5→

L-NOVEL