遺跡解析者  

02 さかなの国
前編

  何か、大切なことを忘れている。
  失われた、空の色のことではない。もっともっと大切なことだ。
  大切なことを忘れたけれど、今は、ただ、青い海の中。
  ぼんやりときらめく光を、青い世界の中に仰ぐだけ。



* * * * * *



「……暇だ……」

 波の音。潮の匂い。もう何度目かの同じ呟きは、そんなものにとけて消えた。

 灰色空の海岸線には、遠い昔、雷の直撃を受けて、半分が海に脱落した古城があった。その後どこかの貴族がそれを買い取り、修復して、別荘として使っていたが、戦争に押され放棄された。
 旅人の間では有名な話だ。結局棄てられる運命にあった、古い別荘。そして今では、崖の上にあることが災いした、自殺の名所。

「……あー。暇。ひーまー」
 その別荘の一角、海に突き出したテラスに、はねた赤い髪のトレハはいた。
 白い椅子にどっかりと座り、緩やかな角度の背もたれに背中を預け、両足は円テーブルの上に投げ出す格好で。戦いになれば槍を振るう腕は、大人に近い青年のもので、おそらく歳のころは十八、九というところだろう。蒼い双眸は細められ、ぼんやりと海に向けられていた。

 別荘はずいぶん昔のものだったので、流石に埃っぽかったが、元は貴族のもの、更に遡るなら、辺境の、とはいえ城である。
 精密に、豪華に造られたそれは、最初に掃除さえしてしまえば、中々に心地良い場所だった。自殺の名所だろうが何だろうが、そんなことを気にする程、トレハは繊細ではない。が。

「……暇だ。本当に暇だ」

 心地良いぶん、問題は何も無い。
 一人暇を持て余しているトレハは、気だるく溜息をつき、睨むように海を見た。灰色空に轟く雷鳴も、寄せては返す波の音も、いい加減聞き飽きたところである。
 トレハは面倒が嫌いだったが、暇も同じくらい嫌いだった。

「あー……暇だ。心の底から暇だ。ったく、何で水の中に、人族はいられねーんだよ」

 二度目の溜息をついて、トレハはテーブルの縁に寄りかからせた槍に目を向けた。ばっちり手入れは終わらせられており、先から終わりまでぴかぴかになっている。掃除だって済んでしまった。別荘内の探検だって終わってしまった。今トレハの頭の中は、どうやって暇を潰そうかと、とにかくそんなことばっかりで。

「っはー……。あーもー、……早く帰ってこいっつーの」

 トレハは海に向かって、大げさな声で悪態をつく。
 その名前を、口にして。

「早く帰ってこい。俺が暇だ。……セーティの心配性!」

 微妙に悪口になっていない悪口を、声に出して言葉にして。
 トレハは三度目の、大きな溜息をついた。

 そんなトレハの姿を、物陰からじっと見つめている、何かの視線には。
 まったく気づいていない様子で。


* * * * * *


「……。今、何か言われた気がする。噂話というか、悪口というか……。
 トレハかな」

 正解だ、と答える声は、もちろんどこにも無いわけだが。

 灰色空の外から見れば、金属のように重い青の。しかし中から覗けば、宝石のように透明な青の。
 耳のとがった青年セーティの現在地は、そんな青色の、海の中、だった。

「……」

 淡い碧色にかがやく光の輪に守られながら、セーティは海の中を進んでいた。歩いているとも泳いでいるともとれる、ゆっくりとした動作で。魔術士の象徴と言える黒いローブの下、線の細い身体は華奢だったが、少女のように、ふれたら壊れそう、という程では無い。整った綺麗な顔は中性的で、声もまた同じように中性的だった。
 抱きしめた杖に嵌め込まれた碧色の石と同じ色の瞳が、海の中、青い世界を見渡している。視線は海面から海中、そしてゆっくりと海底にめぐらされた。

 白い砂につくられた海底には、遠い昔、雷の直撃を受けて脱落した古城の半分が沈んでいる。

「……。あれ……、か?」

 空中に浮かぶようにその場で止まり、セーティは唇に指を寄せる。口の中で、二、三言何かを呟いて、そして彼は再び周囲に視線をめぐらせた。
 全てが青に染まったような海の中では、無数の人の代わりに無数の魚が泳いでいる。灰色空からの僅かな光がうろこに反射して、朝露に濡れた花のようにきらめいていた。

「……」

 赤、藍、翠。いろんな色の魚がいる。泳いでいるのを、セーティは見ている。
 聞こえない音に、耳をかたむけようとした、

 ――その瞬間。

「ちょっと。貴方、魚じゃないでしょう。何をしているのよ」
「!」

 いきなり、背中の後ろから声が飛んできた。声? そんな馬鹿な、こんな海の中で?
 セーティが慌てて振り向くと、そこには。

「聞こえているの? そのとがった耳、人族でも無いわね。何をしているのよ」
「……お前は……?」
「見て、わからないの? 魚よ。それ以外の何でもないわ」

 ――魚。
 魚が、いた。セーティの手のひらで包めそうなほどに小さくて、背びれや尾びれがまるでドレスのようにひらひらしていて、うろこが赤紫色をしていた。
 魚がセーティを見て、セーティに向かって喋っている。歯の無い口を、ぱくぱくさせながら。

「……さかな?」
「そうよ。魚、見たことないの? ここには、魚しかいないわよ。海の中なんだから」

 目を大きく見開いたままの顔で、セーティは魚をじっと見つめた。
 確かに魚だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 それでも何かが腑に落ちない様子で首をかしげるセーティのまわりを、魚はひらひらと泳いでみせた。光が反射して、きらきら光る。

「まあいいわ。どうせ来たのなら、案内してあげる」
「……案内?」
「ここは、私達の領域だもの。海の中を見たくて来たのではないの? ところで――」

 気丈な声は、少女のような響きを持っている。

「その、貴方を守っている、碧色の光の輪。一体、何なの?」

 魚はセーティの、水と光と風を借りた魔法の輪を不思議そうに眺めながら、そう言った。
 青い世界の中で、水の流れに寄り添うように、セーティの長い銀髪が揺れていた。


* * * * * *


「暇だ。……あー、暇だ……」

 うんざりと呟いて、トレハはもう何度目かの、深い、大きな溜息をついた。
 白い椅子に座り、緩やかな角度の背もたれに背中を預け、そして足は円テーブルの上に投げ出され、組まれている。交代に足が組みかえられること以外、先程からまったく格好は変わらない。この場からまったく動いていない、ということだ。視線も先程までと同じく海に向けられていたが、海は見ていないように見えた。

「……」

 ざあん、と消える波の音。トレハは何気なく、テラスの囲いに目をやる。錆びた鉄が植物のような模様を成している囲いの一箇所に、器用なトレハが蔦を裂いて編んだ、緑色の綱が結ばれていた。綱はテラスを下り、別荘が建っている崖を下りて、先が海にまで達していた。セーティが海に下りた時に、そして、海から上がる時にも使われる綱だ。

「……切ってやろうか。畜生」

 ぼそ、とトレハは物騒なことを呟いたが、身体を動かす気配は無かった。

「あーもう、大体何で俺が、あんな面倒くさいことしなくちゃいけなかったんだよ。細かい作業は嫌いだっつってんのに。
 魔法で、空も飛べたら良かったのにな。……ったく、」

 暇もピークに達したのか、相手もいないのに一人愚痴をこぼすトレハは、緑色の綱から視線を外し、円テーブルの上の足を組みかえた。頭の後ろで手を組んで、ぼんやりと思い出す。彼の旅の相棒が、魔術士であるということを。

「……水の記憶で水の許しを。光の記憶で海中を照らす灯を。
 風の記憶で流れを貸し与えよ、だったか。
 ……人族も、そこまですれば、水の中くらい行けそうだけどな」

 その言葉には、ひっそりと、俺も行きたかった、という思いが隠されていた。

「……って、そもそも人族じゃあ、そんなに多くの属性を持てない、か」

 封じられた英雄じゃ、あるまいし。
 大した連れを持ったものだと、呟く。

「……あー。暇だ。本当、暇っていうのは、暇以外のなにものでもねーな」

 既に何十回目を数える訴え。しかし答えるものは無く、声は波の音にかき消された。


 そんなトレハの姿を、見るものがある。
 陰に潜んで、彼の姿をじっと見つめている。
 程近くからのじっとりとした視線に、トレハは、全く気づいていないようだった。
 わざとらしいあくびをして、トレハは静かに目を閉じた。


* * * * * *


 青い世界の底をつくっているのは、白い砂。
 砂に埋もれかかって固定された半分だけの古城が、そのまま魚達の住処になっているらしい。元は古城であった白い壁、柱の周りには、たくさんの魚が泳いでいた。赤、藍、翠や橙。いろんな色の魚達は、まるで宝石のように見えた。

「あそこが『三つ目の丘』ね。上から見ると、隆起したところが三つの目玉みたいに見えるのよ。
 それから、あそこが『姫回廊』。光がよく当たるから、女の子に人気があるの」
「……ふうん……」

 碧色の光の輪に守られたセーティは、魚に案内をされるまま、海のあちらこちらを見回っていた。あちらこちらと言っても、この前を行く魚は、海底に沈んだ古城だけを縄張りにしているらしく、けっしてこの辺りから離れようとはしなかったのだが。
 セーティは赤紫色の鱗を持つ、目の前の魚をじっと見つめる。
 喋る魚。
 何かが腑に落ちないらしく、先程からずっと、セーティは難しい顔を崩さない。

「ねえ、聞いているの? それとも、案内はいらないのかしら?」
「え……。あ、いや……」

 くるりと魚が回り、不満そうな声を上げる。セーティはあいまいに微笑み、もう少し案内を、と言った。すると魚は、今度はとても機嫌が良さそうにくるくる回り、綺麗な動きで泳いでいった。ひときわ高い柱のまわりを泳いで、歩みの遅いセーティの到着を待つ。

「ありがとう。ほら見て、この柱はね、『空果ての塔』というのよ。
 地上には、この柱みたいに高い塔があって、てっぺんで誰かが誰かを待っているのだって、誰かが言ってたわ」
「……」

 尾びれや背びれがひらひらと、水の流れに舞うたびに、それがドレスのように見えた。
 セーティがようやく柱に近づいてきたのを見て、魚はまた別の場所まで泳いでいく。裾をひるがえして、街並みを渡り歩くお嬢さま。セーティは、そんな印象を受けた。

「……空果ての、塔」

 柱に到着したセーティは、ぽつりと呟くと、指でそっと白磁の表面に触れた。水のゆるやかな流れにゆっくりと削られて、触れたところはとてもなめらかだ。

「……なあ」
「? なあに、人族さん。……違ったわね。ティアフル族さん、だったかしら」

 セーティのとがった耳を見て、魚は気丈な声をくずさず返事をする。それで合っているよ、と頷いて、セーティは魚にそっと尋ねた。

「誰に、聞いたんだ?」
「え?」
「この柱のこと。誰に聞いたんだ?」
「……だれ……?」

 魚はくるくるまわるのをやめて、僅かに揺れるだけになった。水の流れに、尾びれや背びれがひらひらと舞っている。
 青い世界はとても静かだ。
 時折、沈んだ古城の隙間から、わずかに空気の泡が漏れ出るくらいで。

「……誰だったかしら。誰だったんだろう。……誰だろう?」
「……」
「誰かが言っていたのは覚えているの。でも……誰だったかしら……」

 少女のような声で、魚は何度も呟く。誰だろう、誰だっただろうと、忘れたことをいつまでも。
 セーティはそれを見て、何かを悟ったように頷くと、碧色の瞳を静かに閉じた。瞳と同じ色の石が嵌まった杖を抱きしめて、その場にじっと留まる。

 音が無い。
 とても静かな、青い世界。

 セーティはしばらくそうしていたが、やがてぼんやりと目を開けた。辺りに視線をめぐらせて、赤紫色の魚を見て、気づかれないように溜息をつく。

「……。……僕だけじゃあ、わからないということか。
 ……でも……、」

 この海の上、崖の上には、昔壊れた古城を修復した別荘があった。その片割れが、今この場所に沈んでいる。海底に身を沈めた古城のまわりを、数え切れないほどの魚が泳いでいる。パステルのようにいろんな色をして、宝石のように綺麗だった。

「……原因、だけはわかった。わからないことも多いけれど……。
 ありがとう」

 海の中、水の流れに微笑んで、セーティはそう言った。そこから少し離れたところで、魚はまだ考えている。

「誰……。誰……? 忘れてしまったわ」

 忘れてしまった、という声を。

「何を、忘れているんだろう?
 ……誰? 誰って、誰のこと?
 ……何を?」

 セーティが、海が、光が、水の流れが。
 無表情で、聞いている。


* * * * * *


「……。駄目だ。眠くもならねえ……」

 白い椅子の、緩やかな角度の背もたれの上で、閉じていた目をぽっかり開けて、トレハは実に残念そうに呟いた。腕を支えに上半身を起こし、大きく伸びをする。
 一息ついて肩を下ろすと、トレハは蒼い瞳を海に向けた。相変わらず海は、寄せては返す波でざわついていたけれど、そこに異物を見つけることはできなかった。どのみち別荘は崖の上、海面と比べて高い場所に位置していたので、海面に浮かぶ人一人なんて、見つけることはできないわけだが。

「……」

 トレハは海から視線を外す。外された視線は、今度はテラスの中に向けられた。トレハの座っている白い椅子が、円テーブルの向こうに、もう一脚。緑色の綱が結わえられた鉄製の囲いは錆びついて、根元は今にも折れそうだった。ただでさえ潮風が当たるだろうに、もっと考えて造れと言いたくなったが、相手もいないので呑み込んだ。

「……半分だけの古城。修復してできた別荘。そして今では、自殺の名所、か。
 辺境の古城は、辺境だから、非人道なことをするには向いてただろうな」

 その代わりに、トレハは考える。別荘を探検した時に得た、情報のことを。
 考え事をしている時、ひたすら単語を羅列していくのは、トレハの癖のようなものだ。

「……これだけじゃ、わからねーな。古城が、別荘になった後のことが……。
 ……やっぱ、俺だけサボるわけにはいかねーってことか。……よっ、と」

 円テーブルに乗せたままだった足を大きく跳ね上げ、白い石で造られた、テラスの床に跳び下りる。そしてトレハは片膝をつき、右の手のひらを床に押し付けた。

 僅かに熱を持つ手を囲うように、淡い緋色の光の輪が浮かぶ。
 トレハが、宿した力を使っている証。

 蒼い双眸を閉じて、トレハはしばらくそうしていた。
 寄せては返す、波の音。

「……拷問器具。それは地下室で見かけた。これは……、……解剖道具? 戦争……。
 落ちた娘……。……。
 ……ティアフル、族」

 ぽつりぽつりと、見えるものを口にして。
 やがてトレハは、瞳を開き、難しい顔をしながら立ち上がった。

「……ちっ。やっぱりこっちじゃ、建物が新しくて駄目か」

 ぼそ、と低い声で呟き、盛大に溜息をつく。心底嫌そうな顔だった。暇な時間も嫌いだが、面倒なことも大嫌いだ。そんなことがありありとわかる表情。

「まあ。……別に確認する必要なんか、無いと思うけどな……」

 今更。そう続けて呟いて、トレハは。
 テラスに立ったまま、唐突に別荘の方を鋭く睨みつけた。ガラスなどという高価なものが贅沢に使われた、リビングとテラスをつなぐ、開け放たれた大きな窓の向こうを。
 リビングとして使われていたのだろう広い部屋には、アンティーク調の四角いテーブルや、暖炉や、古びた絵画、灯りの無いランプ。それから皮の大きなソファーがある。

「俺は、逃げも隠れもしてないぜ? ……なあ、」

 腰を締めたベルトの後ろに提げてある短剣を触ってから、トレハはテラスの円テーブルに立てかけてあった槍を取った。
 トレハの身長程もある、長い柄を両手で握って。

「さっきから、俺を見てただろ? 気づいてないとでも思ったか?」

 ずっと物陰からの視線を感じていた。殺気では無いけれど、心地良くは無かった。無視していたけれど、限界だった。
 トレハはけっして、気は長くない。

「出てこいよ。――いい加減、暇なんだ。話をしようぜ?」
「……。」

 不敵に笑ったトレハの言葉の前に、物陰からの視線が動いた。リビングの壁の陰、テラスからは死角になる場所から、何かが出てくる。
 トレハは槍を握る手に力を込めて、その何かに備えた。力が入った足がテラスの床を押して、じゃり、と音をたてた。


「……救ってくれ……」


 しわがれた、か細い声。男の声だ。トレハの顔が険しくなる。


「……救ってくれ。旅のお方。……あの子を、海に落ちた私の子を。
 あの哀れな娘を、救ってくれ……」

 物陰から、救ってくれという言葉と共に出てきたものは。
 ぼろぼろの衣服に身を包んだ、ほとんど骨と皮だけの、病的に痩せこけた老人だった。


* * * * * *


 白い砂に埋まった半分だけの古城は、壁も柱もほとんどばらばらになっていたが、一箇所だけ、部屋がほぼそのまま残っているところがあった。
 白い壁の四角い部屋。水にさらされて原型をとどめていない家具や、藤壺が住み着いた赤い絨毯。元は絵画がおさめられていたのだろう金の額縁は、からっぽのまま壁に引っ掛かっている。

「ここが『魚の国の玉座』よ。素適でしょう? 私達はみんな、ここで眠るの」
「……」

 魚の国。確かにそうだろう。小さな魚からしてみれば、半分だけの古城でも、充分に一つの国になる。
 柱や崩れた壁に魚が棲む、魚の国。海の中の小さな国に、魔法で守られたセーティは、いる。

「どうしたの。ティアフル族さん。早くいらっしゃい」
「……あ、ああ……」

 遠くから『魚の国の玉座』を眺めていたセーティは、魚の声でその場から離れた。我に返ったと言ってもいい。考え事を始めるとなかなか止まらないセーティはいつも、何だか別人といるみたいだとトレハに言われていた。もっともそのうちに、まあそれがセーティだよなと言われるようにもなったのだが。
 魚の国の玉座……ほぼ丸ごと残っている部屋の絨毯に、セーティはふわりと下りてみた。白い砂はやわらかいらしく、ほんの少し、部屋が沈む。その瞬間、壊れた家具の陰、金の額縁の裏側などいろんなところから魚が飛び出してきて、思わず驚きに肩を竦めた。

「貴方、ここ、壊さないでよ。私達には、大事なところなのだから」
「あ、ああ。ごめんなさい」

 慌てた様子で謝るセーティ。魚は、もういいわと言って、部屋の中を泳ぎ始める。

 嫌われなかったことに胸を撫で下ろしてから、セーティは改めて部屋を見渡した。きっと元はたいそう豪華な部屋だったのだろうが、今では海のほんの一部である部屋。白い壁にはイソギンチャクとその仲間が住み着き、隅からは海藻が生えていて、そして魚が泳いでいる。
 部屋の真ん中に浮かぶように立って、セーティはそれらをじっと見つめていた。水の流れを追うように、空気の泡を追うように。

「……部屋……。……ここなら……」

 何かを確かめるように呟くと、セーティは杖を抱きしめた。長い睫毛が縁取る瞳を閉じて、息さえもそっと潜めた。杖の石が放つ淡い光が、わずかに輝きを増した。これはセーティが、宿した力を使っている証。
 セーティは、空間に潜む精霊の記憶を辿る力を持っている。戦いの時になれば、辿った記憶は魔法の力に変わるが、今はただ、辿るだけの力だ。

「……」

 目には見えない精霊の記憶を、セーティは辿る。長い銀色の髪が揺れる、青い世界。
 辿った記憶が頭の中で、色のあるかたちになっていく。

「……やっぱり……」

 ふわりと瞳を開いて、セーティは呟いた。抱きしめた杖を下ろして、辺りを見渡す。魚が泳ぐこの場所に訪れることになったのは、そもそもここが自殺の名所だったからだ。

「……なあ」
「何? どうしたの? ティアフル族さん」

 優雅に泳いでいた赤紫色の魚は、セーティが呼び止めると素直に寄ってきた。黒いローブを避けながらこちらを見ている黒い瞳。
 その真っ直ぐな視線を受けて、セーティはほんの少しつらそうな顔をする。

「……お前は……」

 杖を握る右腕を、左手でぐ、ときつく握り締める。不思議そうにこちらを見ている魚。
 やがて、意を決したように、セーティは口を開いた。

「……お前の、名前は?」
「なまえ?」

 きょとん、とした様子。セーティは腕を握り締めたまま、真っ直ぐ魚を見ている。

「名前……。私は魚よ。青い海に棲む、小さな魚。それ以上でも以下でもないわ」
「……」

 赤紫色のうろこを光らせて、尾びれや背びれをひらひらさせながら、魚はセーティのまわりをくるくるまわる。白い壁に囲まれた部屋。からっぽの金の額縁。
 別荘のすぐ下の海。人の姿は、人の身体は、どこにも見当たらない。

「……お前は、」


 海の中。
 青い世界。
 全てが青に染まりそうな、そんな錯覚を覚える。


「……お前は本当に、自分を魚だと思っているの?」


 きっぱりと。ただ一言。
 セーティは、静かな世界の中で、小さな魚に、そう告げた。



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